ブランデー・メロン

皆さん残暑お見舞い申し上げます。

毎日暑いですな~。

地球が毎年どんどん暑くなってきてると思っていたら、

ある人から、あんたの体力が毎年衰えていってるんだよ、と言われた。

いやはや、寂しいもんですな~。悲しいもんですわ~。


だからと言って、嘆いていても始まらない。

自分にご褒美あげながら、体と心ををだましつつ、

楽しく楽しく過ごしたいもんですな~、御同輩!!

そこで暑気払いにこの一品。



先ずは、冷やしたメロンを二つに切る。






種を取りだしたらブランデーをタップリ注ぐ。






果肉と混ぜる。






メロンを食べては、ズズーっと啜り、食べてはグビリと、、、






あっという間に完食だゼィ

どうだい、ワイルドだろぅ、、、??

たまにゃぁ、こんな贅沢もいいもんだゼィ

きっと明日からは粗食だゼィ




  


2012年07月31日 Posted by 臥游山人 at 15:13Comments(0)メタボの素

<エジプト・トルコの旅> 6月23日

4:30起床。 6:30朝食。 7:30出発。

昨夜の事が少々気になって恐る恐る朝食に向かったら、Iさんが何事もなかったようにニコニコと席を取って待っていてくれた。「昨日突然帰ったので心配してたんですよ」と言ったら、「ごめんね、歩くのに疲れちゃって一刻も早くホテルに戻りたかったんだよ」。あぁ良かった、これで、一件落着だ。



今日も軽めの食事でスタートする。、、、でもないか?



アンカラからイスタンブールまで450キロ。その間Iさんから中身の濃い話をたっぷり聴くことが出来た。これだけでもこの旅に参加して良かったと思った。車窓には 結構カラフルな団地が続く。



穏やかなマルマラ海。



イスタンブールに入ったのだろうか?変わった建物が見えた。



アジア側を過ぎ、バスはボスポラス海峡に架かる橋を渡りだした。



ヨーロッパ側に到着した。



オリエント急行の終着駅、シルケジ駅の待合室がレストランになっており、ここで昼食をとる。







駅構外に蒸気機関車が置かれていた。







シルケジ駅の外観。



食後に訪れたグランドバザール。例によってIさんは外で待ってると云う。一歩入って、その喧騒の凄まじさに怯んでしまった。オレも外で待ってればよかったな~と後悔しても後の祭りだった。人混みが嫌いで買い物が嫌い、そんなオレにとってここは異次元の世界だった。早々と退散することにした。



続いて訪れたのがエジプシャンバザール。ここも人でごった返してる。



ここが入口だが、中に入らず、Iさんと二人で外をぶらつくことにした。



イェニ・モスクのミナレット。



エジプシャンバザールの横にも色々な店が並んでいた。ここでIさんが干しイチジクを売っている店を見つけた。それも1キロ9リラ。ニヤリと、勝ち誇ったようにオレを見て、早速買い上げた。Iさんの嬉々として弾けそうな笑顔、、、これで77歳、実に可愛い人なのである。

Iさん、余程気分が良かったのか、アイスクリームをご馳走してくれた。



イェニ・モスク。



20:00ホテルに戻る。今日もぐっすり寝れそうだ。





  


2012年07月30日 Posted by 臥游山人 at 15:26Comments(0)旅行記

ピンチヒッター

毎日の散歩で、伴野さんの家の前を通る。伴野さんは、齢70にして真っ赤なポルシェカレラを乗り回している。心が広く、柔和な性格なので、沢山の人から愛されている。オレもそんな伴野さんが大好きだ。

昨日の朝、その家の前を通ったら庭にテントが張ってあった。あぁ、今日は庭でパーティかな?と、思いながらそのまま通り過ぎた。

散歩から帰ったら電話が鳴った。伴野さんだった。「今晩飲み会するからお出でよ」というものだった。やっぱり~。でも、当日の連絡だから、きっと誰かのピンチヒッターだなと思ったけど、折角声を掛けてもらったのでカミさんと出かけることにした。

夕刻5時半頃に着いたらすでに盛り上がっていた。菱和の山名さんがいた。鍋倉さんが到着した。鍋倉さんのお父上である戸田さんにはオレが若い頃、色々お世話になった。いつの間にか賑やかになって来た。鈴与の与平夫妻、静岡ガスの岩崎夫妻、井越の長谷川夫妻、静岡朝テの河合さん、、、プロゴルファーも何人かいた。







三日月会では、木内夫妻、西夫妻、宮崎夫妻、剛さん夫妻、秋山支店長も顔を出した。

あちらこちらで会話が弾み、参加者がそれぞれ持ち寄ってきた酒や食べものも続々と並べられていく。乾杯はドンペリだった。白は何本かあったが、ロゼは一本しかなかったので、女性陣に飲んでもらうことになった。日本酒も「亀」「雪漫々」「国龍」など、、、



ワインに至っては、参加している客の中にソムリエ並みの人が何人もいるので、フランス、イタリアの高級ワインが惜しみなく開けられていく。オレなんかにゃ、全く無縁の世界だ。でも、こんな時じゃないと飲めないので、何種類も飲み回る。当然オレが注がなくちゃいけないのに、与平さんが何回もワインを注いでくださる。



伴野さんから突然声がかかった。「あんたいつも粘土練ってんだからこれやってよ」と、チーズの入った器をオレに差し出した。「オォー、これは!KRACHER(クラッハー)じゃないか?」これはオーストリアのクラッハーという貴腐ワインをたっぷり染み込ませて熟成させた高級青カビチーズである。これを大きなスプーンで全体が馴染むまで練り込む。それをフランスパンなどに載せて食べると美味しい。





もうすっかりカミさんをほったらかしにし、アレをつまんでコレを飲み、コレを食べてはアレを飲む。8時を回る頃にはすっかり酔いが回っていた。いい感じだね~。しかし、あたりを見渡すと、ポツリポツリと人が少なくなっていく。きっと、オリンピックを見たいんだね。見るとカミさんも何となく帰り仕度を始めている。ピンチヒッターとしては、いつまでもダラダラと飲んでいる訳にはいかない。散り際もきれいにしないとね。


伴野さんにお礼を言って、カミさんと二人、夜道をフラフラ歩いて帰る。これもたまにはいいもんだね~。これで手なんか繋いだら、きっと「いい夫婦だね~」と言われるんだろうけど、残念ながらオレにはそんな度胸はあ~りませんです。はい。



  


2012年07月29日 Posted by 臥游山人 at 22:53Comments(0)交遊録

<エジプト・トルコの旅> 6月22日

5:30起床 7:00朝食 8:30出発

今日はアンカラから220キロほど離れた、「サフランボル」という町を見学に出かける。
サフランボルは名前の通り、世界で一番高価な香辛料である、サフランに因んでつけられた名前である。この一帯にはかつてサフランの花が群生していたと云う。

この町にはローマ時代の遺跡が残っており、古い歴史のある町であるが、最盛期を迎えたのは17世紀オスマントルコ時代である。黒海と地中海を結ぶ交易の要所として町は栄え、人々は競って大きな家を建てた。建築様式は日干しレンガや藁を混ぜた土で壁を固めた木造住宅で、家の周りを石の壁で囲った。

20世紀に入ると、町は衰退したが、その美しい家並みは残り、1994年に世界遺産として登録された。



フドゥルルクの丘から町を眺める。







中央右側の煙突が沢山ある建物が、キャラバン・サライ(隊商宿)。



名物のサフラン茶。微かに香りはするが、砂糖を入れると味は分からなくなる。



丘を下りて町を散策した。



木造の家が立ち並び、何となくホっと落ち着く。



この町は全て坂道になっている。







チャルシュ広場付近には小さな店が立ち並んでいる。



イゼット・パシャ通りでは職人の仕事場が見られる。



ハマムと呼ばれる公衆浴場。



チャルシュ広場のバス乗り場。











バザールの路地は、ブドウ棚に覆われて涼しげである。



サフランボルの観光を終え、同じ道を走り19時過ぎにアンカラに到着した。夕食後、N夫妻に誘われ町に買い物に出かけることにした。珍しくIさんも行くと言う。

ホテルから10分ほど歩いたところに、美味しそうな干しイチジクを売っている店があった。値段を見たら1キロ10リラ(約450円)だった。余りに安いので2キロ買った。Iさんも欲しいと言うので聞いたらもうないという。オレが買い占めてしまったのだ。

しかたないので近くの店を探したが、こんな安いものはなかった。

さあ、Iさん、これでは収まらない。「ホテルに戻る」と一人でどんどん帰って行ってしまった。 気分を害してしまったのだろうか?

残されたオレ達は、夜のアンカラの町を散策してからホテルに戻った、、、




  


2012年07月25日 Posted by 臥游山人 at 15:26Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月21日(2 )

「ハットゥシャ遺跡」から3キロ程の所に「ヤズルカヤ遺跡」がある。ヤズルカヤとは、文字のある岩という意味らしい。この地はヒッタイト王国の神聖な儀式の行われる特別な場所で、元々は石で造られた神殿があったらしい。紀元前1,300年頃に築かれた。



神殿があった場所は跡かたもなく荒れたままになっている。



そのまま進んでいくと、大きな岩に刻まれたレリーフが現れた。



ヒッタイトは千の神々を持つ神の国と云われ、ヒッタイトの主神である天候神テシュプと、妻である太陽神ヘパトゥが沢山の神々を引き連れて出逢う様子が彫られている。











トゥトハリヤ4世のレリーフ















12神の行進







神に抱かれた王のレリーフ




戦いの神のレリーフ



ここでは様々な儀式が行われ、生贄とした動物の肉や血を捧げた場所と云われる。



元々はこんな神殿が建てられていた。

ヤズルカヤの見学を終え、そのままバスはアンカラを目指す。アンカラまで210キロ。




アンカラに到着。町は喧騒に溢れていた。



「ダブルツリー・バイ・ヒルトン・アンカラ」ホテル



今晩も野菜中心の食事となる。カロリーは食後のデザートでたっぷり補給する。




  


2012年07月22日 Posted by 臥游山人 at 14:58Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月21日(1 )

5:30起床 7:00朝食 9:15出発

今日の目的地はトルコの首都アンカラであるが、その前にヒッタイト遺跡に立ち寄る。距離240キロ。

中央アナトリア地方にボアズカレという小さな村がある。そのすぐ近くに「ハットゥシャの遺跡」がある。この地域には紀元前数千年頃からヘテ人と呼ばれる民族が住んでいたという。そこに紀元前2,000年頃にインド・ヨーロッパ語族が侵入してきた。共存を図りながら互いの文化を取り入れ、自分達をハッティ(英語でヒッタイト)と名乗った。やがてこの一帯の小王国を統一し、紀元前1,800年頃、この地に都を築いた。

鉄器を自在に操り、二頭の馬に曳かせた戦車を持つヒッタイトは、紀元前1,700年頃シリアに侵攻しバビロン第一王朝を滅ぼす。紀元前1,400年頃にはオリエントに君臨する大帝国として最盛期を迎えた。エジプトのラムセス2世と戦った「カデシュの戦い」では勝敗がつかず、世界で初めてといわれる「不可侵条約」が結ばれたと云う。



のどかな風景が続くが、こんなところに紀元前、世界の歴史を揺るがすほどの帝国があったとはとても思えない。



ボアズカレの村を過ぎ簡素な入口を潜ると、茫々とした荒れ地の中に遺跡が見えだした。



ボアズカレとは、「峡谷の城」という意味らしい。



ここには神殿があったと云うが、敷石が累々と転がっているだけだ。











エジプトのラムセス2世が贈ったとされる緑色の四角い石。



成分は翡翠に近いそうで、これが何の意味を持つのかは分からない。観光客が触るので表面がピカピカになっている。どうも今流行りのパワーストーンとして人気を集めているようだ。















下の方に見えるのは、当時を再現したもので、市場などがあったようだ。これを造るのに日本のJTが援助したと云うが、何の関係があるのだろうか?



この遺跡は元々城砦に囲まれていたようで、上の方に登るとその一部が残っている。



獅子の門(アスラン・カプ)と呼ばれる門で、両側にライオンの象がある。片側は損傷が激しくセメントで再現されていたので写さなかった。



このトンネルは戦士を外部に送りだすためのものだと云われている。長さ70mもあり、頑丈に石組みされている。







当時の住居跡であろうか?あちらこちらにこのような石積みの跡が残っている。



遠くから眺めた神殿跡。かつてここに城壁に囲まれた古代都市と大神殿があった。

しかし、それだけの繁栄を極めたヒッタイト文明も、紀元前1,200年頃、「海の民」といわれる民族によりアッという間に滅ぼされてしまった。知らず知らずのうちに、オレは芭蕉の句を反芻していた。

歴史の非情を感じつつ、バスは「ヤズルカヤ」の遺跡に向かう。




  


2012年07月21日 Posted by 臥游山人 at 17:30Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月20日

5:00起床。6:00朝食。11:00ホテル出発。

今日は午前中は自由行動だった。タクシーを頼んで観光に行く人もいたが、オレは食後にホテルの周囲を散歩してみることにした。Iさんも誘ってみたが、歩くなんてまっぴら御免と断られてしまった。



宿泊した「ダブルツリーバイヒルトンアバノス」ホテル。今日はもう一泊ここに泊まる。



ホテルのすぐ近くを流れる赤い川「グズル・ウルマック」。トルコ最長の川である。



ホテル出発後見かけたのどかな風景。カッパドキアとは、「美しい馬の地」という意味らしいから、昔はこんな風景があちこちで見られたのだろう。



































ここで困ったことが起きてしまった。今まで何回もの海外旅行で活躍してくれたカメラが突然故障してしまったのだ。バッテリーは充分あるのに、スイッチが入らなくなってしまった。

途方に暮れていたら、同じバスに乗っていたN夫妻が、奥さんの使っているデジカメを貸してくれると云う。今までのカメラのように時間が表記されないので時系列が分からなくなるが、そんな贅沢は言ってられない。有難い、 ホントに有難い。










































6:30ホテル到着。明日はアンカラに向かう。



  


2012年07月18日 Posted by 臥游山人 at 22:54Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 番外 イスラムへの失望


旅行の初日は、日記でも書いたように結構ハードだった。日本を夜発って、早朝にカイロ着。昼過ぎまでカイロ市内を見学し空港にUターン。夕刻にカイロを発ち、2時間少しのフライトでイスタンブールに到着した。

疲れた体に鞭打って入国カウンターまで延々歩いた。やっと辿り着いたら、そこには長い行列が、、、覚悟を決めてその列に並んだ。ゆったりとした審査でなかなか列が進まず、イライラ感が周囲にも漂いだしたその時であった。

40代の恰幅のいい現地の男性が家族連れで現れた。10歳くらいであろうか、チャドルを身に付けた女の子がなかなか可愛いい。ところが、その家族がいきなり列に割り込む気配を見せた。オレは静かに「列に並びなさい」と注意した。「I know」と返事が返ってきたので、オレは当然後ろに並ぶものと思った。

しかし、しばらく周囲を見渡していたと思ったら、空港の係り員を手招きして何やらヒソヒソと話をしていた。その後オレはとんでもない光景を目撃した。その係り員が突然空いていた入国カウンターにその家族を案内し、並んでいるオレ達をしり目に、あっという間に入国してしまったのだ。

あまりのことにオレは声も出なかった。その時、女の子が突然振りかえった。呆然と見詰めるオレにまっすぐ目を合わせ、どうだと言わんばかりにニターっと笑ったのだ。その笑顔はとても少女とも思えない不気味でおぞましいものだった。

小さな出来事だったが、オレは、イスラムの正体を見たと思った。




  


2012年07月17日 Posted by 臥游山人 at 00:57Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月19日

4:30起床。6:00朝食。7:45出発。

そもそもこの旅行に参加したきっかけは、エジプトではピラミッド、トルコではカッパドキアを見てみたいというのが大きな理由だった。正直言ってオレはあんまりイスラムのモスクには興味がない。しかし、この旅では思いもかけず、エーゲ海沿岸でギリシアやローマ時代の遺跡に触れることが出来た。

そして今日、ようやくカッパドキアに向けて出発する。カッパドキアまでの距離は215キロ。

コンヤを出発したバスは、途中スルタンハンという町にある「キャラバン・サライ」の前で停まった。ここは、シルクロードを行き来する隊商が宿泊する宿であるが、堅牢な外壁に囲まれている。当時は隊商を襲う盗賊が沢山いたので、このような宿がトルコには100以上あったという。中に食堂やトルコ式浴場、そして礼拝場もある。三日間までは無料で、それ以降は有料だったと聞いた。


















カッパドキアとは、中央アナトリアに属する小さな地域の総称である。その地域に、火山によって噴出された溶岩が浸食されたり風化して出来上がった奇岩珍岩が点在している。ここには新石器時代から人が住み始め、ヒッタイト、ペルシャ、ヘレニズム、ローマ、ビザンチン、セルジューク、オスマン帝国と支配が変遷する。

4世紀にキリスト教の修道士が洞穴の中で生活を始め、8世紀にはイスラム教からの迫害を逃れるために、キリスト教徒たちは穴を掘って岩山の中に住んでいた。



カッパドキアに向かう途中、富士山に似た山が見えてきた。トルコが火山の国だということが分かる。



それらしい景観が見えだした。



最初の見学地「カイマクル地下都市」に向かう。



地下都市に行くにはこのお土産屋を通らないといけない。



地下8階くらいまであるというが、見られるのはほんの一部である。イスラムの攻撃に耐えるため完璧な防御システムが施された内部には、寝室、馬小屋、テーブル、ワイン醸造所、倉庫、教会、井戸、トイレ、キッチン、通風孔がしっかり完備しており、夏涼しく、冬は暖かいという。







小麦粉を挽いた石臼だろうか?





「鳩の谷」から「ウチヒサル」を見る。







「三姉妹」とよばれる岩。



















「ラクダ岩」







ホテルの設備も悪くはなかった。



食事は完全に野菜中心となった。スイカとメロンは外せない。ヨーグルトも毎日欠かさず食べた



  


2012年07月16日 Posted by 臥游山人 at 13:36Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月18日(2 )

今日の宿泊地、コンヤまでは410キロある。Iさんが早々とバスに乗り込み、オレを今日も窓際に座らせてくれる。最初は親切でそうしてくれるのかと思っていたが、どうもそうではない事が分かって来た。バスは一時間ほど走るとトイレ休憩になるのだが、いつも着いたとたんにIさんがいなくなる。とても77歳のおじいさんの身のこなしではない。

「Iさん、そんなに慌てなくてもいいんじゃない?」と言ったら、「私は並ぶのが大嫌いでね。何でも一番じゃないとイヤなんだよ」と、ニコリともせずに言った。そうか~、それで朝食も朝一で集合なんだ、、、段々分かって来た。バイキングの料理を取る時も、Iさんは「一番上は埃かぶっているよ」と、必ず二枚目の皿を持ってオレに渡してくれる。

でもそのお陰でオレは楽が出来る。有難い、有難い、、、



バスはアナトリアの内陸に向かって走る。地形も山が多くなり、景色も単調になってくる。平地では野菜畑も沢山見られた。

コンヤは、セルジュク時代の王都として、また交易の中心地として栄えた古都である。



先ずは、「インジェ・ミナーレ神学校」を見学する。インジェミナーレとは細長い塔という意味があり、元はまだまだ長かったそうだが、落雷で折れて今の高さになった。



前門には見事な彫刻が施されている。











次は、セマ(旋舞の儀式)で知られるメヴレヴィ教団を創設したメヴラーナ・ルーミの博物館に行った。この建物は博物館の横にあるセリミエ・モスクである。

踊る宗教と言えば、日本にも一遍上人の踊る念仏、時宗があった。踊りながらトランス状態になり、神の世界に近ずくという、、、東西を問わず、同じような教団が現れるんだね。



こちらがメヴラーナ博物館







博物館といっても、中は聖人の墓地となっており、この水で手足を清めてから入場する人が多い。オレはバチあたりなのでそのまま入場。内部は残念ながら撮影禁止となっている。



中庭には宝物を陳列した小部屋がぐるりと並んでいる。



オレはキンキンギラギラには興味がないが、ガラスには興味が湧いた。



これはウランガラスだろうか?







ちょっと退屈したので、公園に出て涼んでいた。生のオレンジを絞ってくれるジュース屋があったので注文してみた。甘くて美味かった。これでちょっと生き返った気がした。とにかく暑い、、、



集合場所で全員確認。再びバスに乗り、今夜宿泊する「ホテル・リクソス」に向かう。



ホテル到着。部屋は21階だった。窓が一面ガラス張りになっており怖くて下が覗けない。高所恐怖症はツライネ~~。




  


2012年07月13日 Posted by 臥游山人 at 22:22Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月18日(1 )

4:30起床、6:00朝食、7:30ホテル出発。

トルコ西部、デニズリ県にある小さな村パムッカレは、トルコ語で「綿の城」という意味を持つそうだ。昔からこの一帯は良質な綿花の一大生産地であった。

パムッカレは、石灰華段丘からなる丘陵地である。酸性雨が石灰岩の中に浸透し、石灰分を溶かした地下水が地熱で温められて温泉となる。その温泉水が地上に湧き上がり、中の石灰分が沈澱し、まるで雪が積もったような純白の棚田の様な景観を創りだした。

そして、その横には「ヒエラポリス」という古代都市遺跡がある。ヒエラポリスは、紀元前190年頃、ベルガモン王エウメネス2世によって建造された。「聖なる都市」という意味を持ち、ローマ支配下になってから温泉都市として更に繁栄し、最盛期には人口10万人を越えたという。

時間がなく残念ながら近づくことが出来なかったが、ここにはプルトン(冥界)の入り口と云われる「プルトニウム」という名の洞窟があり、ここから常時毒ガスが噴出している。神官がこの穴に入り、無事戻ってきて奇跡を演出し、神憑り状態になって神託を行ったとされる。そして、その上に「アポロン神殿」が築かれた。

ヒエラポリスはAD17年、60年の地震で甚大な被害を受けたが、2~3世紀にローマ帝国によって復興された。しかし、11~14世紀にはトルコ軍の侵攻を受け、更には、1354年の大地震により、残念ながら完全に崩壊してしまった。



南の門から入場したが、一帯は荒涼としていた。



町はこのように築かれていたという。



ここには学校があった。



遠くに野外劇場が見える。2世紀にハドリアヌス帝により造られたローマ様式の円形劇場で、15,000人が収容出来たという。中には皇帝が座るための、大理石で出来た貴賓席まであるそうだ。



オレは、花を愛でる程のロマンティストではないが、こんな荒涼とした場所にいると、野辺に咲く花を見て心がホっとする。



どんどん進み石灰棚に到着。下に見えるのはパムッカレ村。



まさに棚田のような景観だ。



大きな広場や、ローマ式浴場があった。昔は、温泉レジャー施設のような場所だったのかもしれないな~



足元はこんな模様が広がっており、つるつる滑らないから裸足でも歩きやすい。



まるで雪景色を見ているような錯覚に陥る。











ヨーロッパからの観光客がかなり多い。右脇の溝に温泉が流され、足湯を楽しむ人も多く見られた。



石灰棚から離れ、北の方に歩いてみる。



逆の方向から石灰棚を眺める。







2世紀の遺跡である「ローマ浴場」を利用して造られた「考古学博物館」で、貴重な出土品などを展示している。



当時のメインストリート「バシリカ」。両側には柱廊があり、商店が軒を並べていたという。



柱の上に、大きなトカゲが二匹、日光浴をしていた。



南ビザンティン門を抜けてバスに戻ると、Iさんがニコニコと出迎えてくれた。





  


2012年07月11日 Posted by 臥游山人 at 16:05Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月17日(2)

エフェソスは、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心地として栄えた、「アルテミス信仰」のギリシア人都市である。「アルテミス」とは、ギシア神話に登場する、狩猟、純潔、又は月の女神のことである。

しかしエフェソスでは、地母神キベレと混交した独特なアルテミス信仰として根づいていった。市庁舎に祀られている女神の像には、胸部に多数の乳房のような装飾がある。それで「多数の乳房を持つ豊穣の女神」と言われているが、アルテミスは人身御供を要求する神であるため、生贄にされた牡牛の睾丸だという説もある。

ヒッタイト文化の痕跡も見られるという、この古代都市には、歴史上の人物も多数訪れている。クレオパトラ、アントニウス、ブルータス、アレキサンダー大王、カエサル、プラトンなど、、、又、聖母マリア、聖ヨハネがこの地で晩年を過ごしたと言われているので、歴代のローマ法王も訪れるらしい。



唐突で申し訳ないが、これは古代の公衆トイレの跡である。20人程がゆっくり座れるスペースがあり、勿論水洗である。目の前には水の流れる溝もあり、音楽を聞きながら用を足すことが出来たという。



クレデス通りを真っ直ぐ進むとケルスス図書館跡にぶつかる。コリント式の華麗な柱を持つ建物の正面には、英知、徳、思慮、学術を表す女性像が飾られているが、これはレプリカらしい。



娼館の跡と聞いた。これが世界で一番古いビジネスと言われている。後ろは「ヴァリウスの浴場」跡。



クレデス通りをほぼ直角に右折すると、マーブル(大理石)通りになる。ここに娼館の案内図があった。足跡は娼館への方向を示しているとも、この足跡より小さい者は入館出来ないとも伝えられているようだが、定かではないようである。



マーブル通りをそのまま進むと、右側に大きな野外劇場があった。24,000人を収容出来るそうだ。



野外劇場から望むアルカディアーネ通り。往時は両側の列柱に明かりが灯り、ずっと商店が続いていたという。ここをクレオパトラがアントニウスと一緒に歩いたと言われている。

この道は、そのまま港まで続いていた。



突然ファンファーレが鳴り、当時の衣装を着た一団が現れた。



美女の踊りが始まる。



グラジエイターの戦いを再現。



そして去って行く、クレオパトラ(?)とアントニウス(?)。

丁度タイミング良く、目の前でこのパフォーマンスを見せてもらった。なんか得しちゃったね~。 エフェソスは、これだけ広大な遺跡であるが、残念ながら世界遺産には登録されていない。



エフェソス遺跡の観光を終え、いつもの通り涼しいところで待っていたIさんと合流した。バスに乗り、今度はアルテミス神殿跡の見学に向かう。



ここは古代世界の七不思議とされ、壮大な神殿があったと言うが、今は湿地の中に一本の円柱だけが残っている。



当時は総大理石作りの壮麗な神殿があり、高さ19m、127本の円柱が立ち並んでいた。アテネのパルテノン神殿がすっぽり収まるほどの大きさだったという。

神殿は紀元前365年の火災の後に再建されたが、3世紀にガリア人により破壊されそのまま荒れ果ててしまった。その後、これらの石材は建築材料として持ち去られてしまった。



一本だけ残った円柱の上にはコウノトリが巣を作り、雛が孵っていた。コウノトリはバスで走っていても、あちらこちらで見かけることが出来た。






バスはエーゲ海沿岸を離れトルコ内陸部に向かう。窓の外の風景も変わり、植えてある木もサクランボが多くなった。これから石灰棚で有名な温泉地、パムッカレに向かう。パムッカレまで185キロ。



パムッカレのホテル「サーマル コロッセア」に到着。



ここには、温泉や温泉プールなどがあり、リゾートホテルのようだ。



さぁ、今晩もアルコールはやめて甘党に徹することにしよう。欲張らずに一個一個取っていっても、すぐ皿は一杯になってしまう。

ニコニコしながらIさんの待つテーブルに戻ったら、オレの皿を見てIさん、一瞬嫌そうな顔をしてたナ~

でもそんなの気にしない、今日も思い残すことなくトルコの美味しいデザートを腹いっぱい食べて、独りベッドで眠りに就くのであった、、、




  


2012年07月09日 Posted by 臥游山人 at 16:50Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月17日(1 )

4:30起床、6:00朝食、8:00ホテル出発。



バスはクシャダスの町が一望できるポイントで停まり、バスから降りてこの風光明美な景色を眺めた。エーゲ海に面したこの町は、ヨーロッパからの大型観光船も入港し、バカンスの時期は多くの観光客で賑わう。



遠くに見える島はギュヴェルジン島と呼ばれる。島までは300m程の橋が架けられ、歩いて渡れる。この島は、地中海を舞台に暴れまわった海賊、バルバロス・ハイレッティンが拠点にしていた島である。



この後は、エフェソス遺跡を見学する。エフェソスは、トルコ西部小アジアの古代都市で、イズミル郡のセルチェク近郊に位置している。ここは、紀元前2,000年頃にアナトリアの地母神キベレの神殿を持つ集落があったというが、紀元前1,100年以降、ギリシアからの移民イオニア人が、アルテミス信仰を持ち込み、キベレとの融合を図りながら栄えてきた。



山の谷あいに広がるエフェソス遺跡の最初の住民は、ギリシア人ではなく、リュディア人だったと言われている。



2世紀に造られたローマ式浴場、「ヴァリウスの浴場」跡。



時間の変遷もあるが、後世の建築の為に持ち去られたり破壊されたりして、完璧なものはないのが残念だ。



1,400人収容の音楽堂。ここは会議の際も利用されたという。

トラヤヌスの泉、神々の彫像がたくさん彫られていたという。



バシリカの円柱。当時はこんな美しい柱があちらこちらにあったんだろうな~。



メミウスの碑。ローマの独裁官スラと、息子ガイウス、孫のメミウスという三代を祭った碑で、紀元前1世紀に建てられたという。



医者の看板だそうだ。



勝利の女神ニケのレリーフ。これがナイキのマークのモデルになったという。



メミウスの碑を横から見る。



図書館まで続くクレデス通り。



トラヤヌスの泉。本来は9m程の高さがあった。



富裕層が住んでいた住居跡。



歩道にはモザイクタイルが敷き詰められている。



ハドリアヌス帝に捧げられた神殿、



女神ティケ、メドーサなど、神々や皇帝のレリーフが綺麗に残っている。




  


2012年07月08日 Posted by 臥游山人 at 16:12Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月16日(2 )

目指すベルガマまでは200キロある。その間、Iさんとの楽しいお喋りタイムとなる。Iさんは、すっかりオレを信頼してくれたのか、自身の生い立ちや歴史秘話のような話を色々聞かせてくれた。こんな贅沢な旅はないな~と思いながら、話を聞いているうちに、バスはベルガマに町に到着した。

ここに、紀元前3世紀半ばから2世紀までにアッタロス朝の都として繁栄したヘレニズム時代の都市、「ベルガモン王国」があった。最盛期にはエジプトやシリヤと比較できるほどの国力を誇ったが、その栄華は永く続かなかった。

アッタロス3世の死後、その遺言により全領土がローマに委譲され、「ベルガモン王国」はローマの支配下となった。以後、ベルガモンは自由都市として栄え続けたが、7世紀にアラブの侵攻で疲弊してしまった。

バスが着いたのは、「アスクレピオン」という遺跡だった。医学の神、アスクレピオスを祀る神殿を中心とした神域で、医療行為を行う古代の病院でもあった。

ここは紀元前400年頃、ギリシアのエピダウロスにあったアクスレピオンから、医療技術を持った神官を招いて始まったとされる。



長い参道を歩いて入り口に向かう。

入り口の壁には、「死はこの門を入るべからず」と彫られたあったという。ここに入所する者は、あらかじめ医師の診察を受け、治る見込みのない者の入所を拒んだという。受け入れられた者は、自分の病気は治ると思わされる。既に心理的な治療が始まっているのである。

尚、入所しても治療の甲斐なく亡くなった者は、他の入所者に知られることなくひっそりと運び去られたという。



振りかえると、遥か山の頂に「アクロポリス」の遺跡を見ることができる。ホントはここに行きたかったな~。でも、老人中心のツアーではあの広くて勾配のある遺跡の見学は無理とツアー会社が判断したんだろうな~。



補修して当時の面影を再現している所もあった。



入口祭祀場にある蛇の柱。蛇は古来から医学の守り神とされてきた。脱皮を繰り返すことから、命の再生を願ったものではないかと思う。



治療棟跡。



聖なる泉。水がまだ流れていた。この水には微量のラジウムが含まれていることが分かった。



回廊の跡であろうか?ここには日光浴ができるテラスや、泥浴プール、図書館、入り組んだ水路など、数々の施設があった。



野外劇場の観客席。白い部分は身分の高い人の座るところという。



野外劇場。ここには3000人以上収容できる。



アテネの神殿のような美しい柱が並んでいる。



聖なる泉と治療室を結ぶ地下道。階段の横からチョロチョロと水が流れ出ている。この水音も、癒し効果としてわざと作られたものだそうだ。



地下道は80m程の長さだが、天井に15の穴が開けられ、そこから陽光が挿してくる。その穴から医師が患者に向かって囁き、患者は天から聴こえてくる神の啓示として受けていたと言われている。患者には、モルヒネのようなものも投薬されていたらしい。



参道を戻る。アクロポリスがユラユラと霞んでで見えた。



バスに向かう道横の草原で、一頭の馬が遊んでいた。


バスを停めた横のお土産屋でお茶を飲んでいたIさんを発見。これから今夜の宿泊地「クシャダス」まで205キロを走る。



クシャダスの「アダクレホテル」到着。ここはエーゲ海に面したリゾート型のホテルで、もうそろそろヨーロッパからの観光客で賑わいをみせるだろうね。イタリアも、ギリシアも海を挟んですぐそこだ。



泊まった部屋。簡素だが、中々いい。



スイカの飾り物。この時期、スイカとメロンはすごく美味かった。



それとデザート。これはその一部分。余りにも種類が多すぎて選ぶのに苦労したが、余りの甘さに食べるのにも苦労した。



部屋からの眺め。この時間でもまだ明るい。



エーゲ海に沈む夕陽、、、と思ったら、海の向こうに陸地があり、山に沈んだ。きっとギリシアあたりではなかろうか、、、など感傷に耽ってる暇などない。さぁ、洗濯、洗濯。




  


2012年07月06日 Posted by 臥游山人 at 22:42Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月16日(1 )

5時に起床。シャワーを済ませてから朝食に行くと、Iさんが笑顔で待っていてくれた。7時に荷物を出し、8時にホテルを出発した。







至る所にオリーブの木が植えられ、車窓は緑に溢れていた。

最初の見学地は、チャナッカレの外れ、マルマラ海に面したビガ半島のヒサルクの丘にある「トロイ遺跡」である。1998年、世界遺産に登録された。ホテルからは30キロ程の距離にあるこの遺跡は、ホメロスのギリシャ叙事詩「イーリアス」にトロイ戦争として登場する。

小さい頃からこの叙事詩を父から聞かされて、その存在を信じていたというドイツ人のハインリッヒ・シュリーマンが、貿易で得た莫大な富をこの発掘のために使い、1873年ついにこの遺跡を発見した。



往時はこのすぐ近くまで海に面していたという。ここから監視をしてマルマラ海を通る船から通行料を徴収していたのだろう。



城壁の石垣は、小さな石を積み上げただけの単純なもので、集落の規模も小さなものだったようだ。当時住んでいた民族も、侵略したといわれる民族も不明で、未だに謎に包まれている。



石垣に真っ赤なひなげしの花が咲いていた。



当時の煉瓦がそのままむき出しになっている。



メガロン式住居跡。



この遺跡は紀元前3,000年から紀元前334まで、さまざまな九つの層からなっているのだが、学術的知識のなかったシュリーマンは、宝さがしに狂奔し、貴重な各代の遺跡を悉く破壊してしまったらしい。



年代を書いたプレートが置かれ、その地層を見ることができる。水や地理的優位性を考え、次々と同じ場所に新しい町を築いていったのものと思われる。建設と平和、侵略と破壊、そして自然災害、、、人類の営みはこの繰り返しで現在まで続いているのかも知れない。



石畳の坂道。昔、荷馬車や騎馬兵もこの道を通って城に入ったのだろう。若しかすると「トロイの木馬」もこの道から招き入れられたのかもしれない、、、



ここは聖なる儀式に使われた場所で、生贄の動物の血を貯める井戸がある。



紀元前500~334年頃に使用されたという小劇場(オデオン)







再現された「トロイの木馬」。10年もの間攻めあぐねたギリシャ軍が、この木馬を城外に置いて姿を消した、、、という話は余りにも有名だが、これが実話かどうかは解明されていない。

シェリーマンは、探し当てた財宝を悉くドイツに持ち帰ってしまった。しかし、第二次世界大戦で殆どが焼失し、残ったものもロシア軍に持ち去られ、現在プーシキン博物館に収蔵されているという。



広場の博物館にあったジオラマ。



この遺跡には、アナトリア、ギリシャ、ローマなどから人々が移動して住み着いたので、ヘレニズム時代、ローマ時代、ビザンティン時代の貴重な遺物を多数見ることができる。





見学を終えて戻って来たら、Iさんがニコニコと出迎えてくれた。Iさんは歩くのが嫌で別行動を取っていた。「どうしていたんですか?」と聞くと、茶店で、冷たいチャイを飲みながら1人寛いでいたらしい。

次はベルガマの「アスクレピオン遺跡」に向かう。温度は40度に近かった、、、





  


2012年07月04日 Posted by 臥游山人 at 21:49Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月15日

昨日早めに就寝したので今朝は5時半に目が覚めた。シャワーを浴びて6時半にレストランンに行ったら、もうIさんが席を取って待っていてくれた。軽めの朝食をと思いつつ、ついつい取り過ぎてしまう。Iさんがさり気なくウエットテッシュを渡してくれ、更に日本から持参した味噌汁まで戴いた。

7時半にホテルを出発。バスはマルマラ海を眺めながら快調に走りだした。Iさんはオレを窓際に座らせてくれた。今日の見学地はギリシャやブルガリア国境に近い「エディルネ」という小さな町である。「エディルネ」までは約230キロの距離になる。





「エディルネ」の町は、2世紀初めにローマ皇帝ハドリアヌスによって築かれ、ハドリアノポリスと呼ばれた。4世紀にコンスタンティヌス帝がローマからコンスタンティノーブル(イスタンブール)に遷都した後、首都に近いこの町は商業の町として栄えた。

やがて東ローマ(ビザンティン帝国)が衰えた頃、オスマン・トルコは、ヨーロッパ侵略を図り、1365年にプルサから、ヨーロッパが視界に入るこの町に遷都した。しかし、オスマン帝国の衰退と共に「エディルナ」の町は寂びれていく。

近年世界遺産に指定されたこの町には「ユチュ・シュフェリ・モスク」と「セリミエ・モスク」など、いくつかのイスラム寺院がある。

昼前に町に到着し、早速「ユチ・シェレフェリモスク」を見学する。1447年にオスマン・トルコが初めて建てたローマ様式の大ドームを持つこの寺院は、三つのバルコニーを持つミナレットが建っていることからこの名がつけられたという。



中庭から見るミナレット。



門をくぐると見事な天井画があった。



ドームの内部は、絨毯が敷き詰められ、座る場所が決められていた。或る同行者がこの絨毯に座り、お祈りするポーズを取り記念撮影をしていたが、宗教の苛烈さをどのように考えているのか?甚だ疑問に感じながらオレは見ぬふりをしてしまった。



ドームの天井。



ユチュ・シュレフェリ・モスクの全景。



次の見学地「セリミエ・モスク」は、スルタン・セリム2世の命により1575年に建てられた。トルコのミケランジェロと称される、ミマール・スィナンによって手がけられた、トルコを代表する建築物である。



セリミエ・モスクの全景。



ミマール・スィナンの銅像。



この寺院にも立派なミナレットが4本建っている。



ドームにはやはり美しい天井画があった。



ドームの高さは43メートル、直径は31メートル余りある。



ドームは8本の柱に支えられている。



女性が見学する時は、髪の毛を隠すようにスカーフを纏い、肌の露出が多い時には、肌を隠す布を渡される。



中庭風景。






「エディルネ」見学を終え、バスは「チャナッカレ」に向けて走り出す。行程225キロ。

いよいよバスはヨーロッパ側と別れを告げ、ダーダネルス海峡をフェリーで渡る。この海峡はマルマラ海とエーゲ海を結ぶ重要海峡で、古くはヘレンスポントスと呼ばれた。この海峡を、アガメムノン軍が、アレクサンドロス軍が、そしてクセルクセス軍が遠征の為に渡ったのであった。



ダーダネルス海峡をフェリーで渡る。



アジア側、チャナッカレの町が見えてきた。



チャナッカレで泊まった「コリン・ホテル」。食後、Iさんと近所のスーパーに買い物に行き、帰るなり、今晩も早々と撃沈したのでありました。




  


2012年07月03日 Posted by 臥游山人 at 22:41Comments(0)旅行記

<エジプト・トルコの旅> 6月13・14日

3月のある朝、何気なく新聞に目を通したら、いきなり「15日間のエジプト・トルコ大周遊」という広告が目に飛び込んできた。旅行代金も格安だった。前々からピラミッドやカッパドキアを見たいなと思っていたので、思わず「これだ!」と思い、カミさんに「行こうよ」と誘ってみた。カミさんも「いいよ」と言うので、その日のうちに旅行社に連絡を入れた。

ところがである、、、日程が届いてからカミさんの表情が曇りだした。そして「私、行きたくない」と言いだした。日程が過密で、バスに乗る時間が多い。カミさんはバスが苦手だった。「じゃぁ、オレ1人で行ってくるよ」ってな訳でカミさんをキャンセルし、オレ1人で参加することにした。

出発前々日に宅配でスーツケースを出し、当日は小さな肩掛けカバンひとつ。3時過ぎの「ひかり」に乗り品川駅で下車、「成田エクスプレス」で成田第一ターミナルに向かった。南ウィングの集合場所で既に受付が始まっていた。今回の参加者は総勢40名で添乗員は二人付いた。



添乗員からEチケットを受け取り、それぞれ個人でチェックインを済ませる。時間通りに搭乗も始まった。幸運なことに三人席に二人だった。機内にイスラムのお祈りが流れてから機体が動き出し、エジプト航空MS0965便は定刻通り成田を飛び立った。



飛行時間が予定より短縮され、12時間程でカイロに到着した。全員集合したところで添乗員からビザを受け取り、それをパスポートに貼った。入国手続き完了後、ターンテーブルで荷物を受け取る。






そのまま税関を通り、到着ロビーに迎えに来ていた現地ガイドの案内でバスに乗りこむ。


ゆっくり乗り込んだら殆どの席が埋まっていた。見渡すとひとつだけ空いていて、そこには一人のおじいさんがつくねんと座っていた。「いいですか?」と声を掛けたら、ニッコリと頷いてくれた。それがIさんだった。最初はお互い言葉を探しながらぎくしゃくと会話をしていたが、打ち解けるに従い、話題や価値観に共通するものが多く、次第に会話も弾みだした。

バスはカイロ市内を走り、朝食をとるために、この旅の最終日に泊まるホテルに向かった。「カタラクト・リゾート・ピラミッド」というこのホテルはコテージのようになっていて、プール設備なども整っているが、何となく全体に埃っぽい印象を受けた。







レストランでの朝食は、Iさんが席を取って待っていてくれた。ビュッフェ方式で、なかなか豪華だったが、野菜類は食べないようにと言われていたので果物中心の食事となった。

朝食後、さっきの道を戻り再びカイロ市内に向かう。途中ナイル川を渡る。





着いたところは、十字軍を打ち破ったサラディンが、1176年にモカッタムの丘に建設したという城塞の中に建てられた、「ムハンマド・アリ・モスク」だった。このモスクは1824年にムハンマド・アリが建設を始め、1857年に息子のサイード・バシャが完成させた。











このモスクを外側から見学して、バスは市の中心地、タハリール広場に隣接する「エジプト考古学博物館」に到着した。この博物館は初代考古局長に就任したフランス人考古学者オギュスト・マリエットにより1950年に建築された。







この中には20万点にも及ぶ収蔵品が納められており、中でもツタンカーメン黄金のマスクが有名であるが、残念ながら内部は撮影禁止になっている。しかし、かなり窮屈に収蔵されており、全体が倉庫の様な印象を受けた。庭の中にも本物の発掘品が展示されており、こちらは触れることも出来る。





タハリール広場はムバラク政権を追い落とした「アラブの春」で全世界に注目された場所でもある。ここに200万人を超える市民が集まり、政権側と激しく対峙した。多数の犠牲者も出たところである。今は何事もなかったかのように静かだが、ふと見上げると焼け焦げたビルが目の前にあった。時の政権与党本部のあったNDPビルである。このビルはその時に放火された。



聞けば、略奪行為もかなりあったそうで、NDPビルだけではなく、何と博物館にも被害が及んだそうだ。果たしてオギュスト・マリエットの像はどんな思いでこの騒乱を見守っていたのだろうか?







さあ、今日は忙しい。見学が終わったらそのままカイロ空港に向かう。





今朝方入国したばかりなのに、日付の変わらないうちに出国手続きをする。そして、14:20発のMS0735で次の訪問地トルコを目指す。



Iさんが一緒の席にしましょうと言うので、隣の席を確保。2時間ちょっとの飛行で、イスタンブール空港に無事到着。

入国を済ませ、迎えのバスに乗りこみそのままホテルに向かう。到着後、荷物を部屋に運んでから夕食。ここでもIさんが席を確保していてくれた。楽しい食事が終わると部屋に戻りシャワーを浴び、そして洗濯。その日はそのままベッドに倒れ込み、夢すら見ることもなく爆睡したのであった。




  


2012年07月02日 Posted by 臥游山人 at 22:28Comments(2)旅行記