春日三球師匠
先日浅草で三球師匠と飲んだ時、「師匠今度清水に遊びに来ない?」と誘ったら、「行くよ、その時は日本平ホテルに泊まりたいな」と、即答だった。
約束通り、昨日三球師匠が遊びに来た。オレの運転じゃ怖がりそうなので、きくちゃんに車を出してもらって、カミさんとオレの3人で静岡駅まで迎えに行った。
2時6分着「ひかり」が到着。ところが、師匠が一向に現れない。どうしたのかな〜と、キョロキョロしていたら、突然柱の陰から師匠が登場。どうやらエレベーターで降りてきて、一番端の改札口を通り、困っているオレを暫く楽しんで眺めていたらしい。
でも、なんだか様子がおかしい。歩くのがちょっと辛そうだった。「どうしたの?」と聞いたら、数日前に腰を痛めたらしい。「でも約束破りたくないからね〜」師匠は昔から、出来ないことは安請け合いしない。その代り、約束したことはできる限り守る。そんな人なのだ。
やっこらしょっと車に乗り、そのまま日本平ホテルに向かう。オレもホテルが新築して初めてだった。チェックインを済ませ、5階の師匠の部屋を見せてもらった。窓側が全面ガラス張りで、三保全景と富士山が真正面に見える素晴らしい部屋だった。



一階の喫茶室で一時間ほど歓談し、我が家に向かう。ところが山道のドライブでカミさんが酔ってしまった。家について暫く様子を見たが回復しない。仕方ないので、オレと師匠二人だけで「末廣鮨」に向かう。
カウンターの中で親方がニコニコと迎えてくれた。実は、師匠と親方は「飛鳥」仲間で、世界一周の船旅にも一緒に乗っている。師匠は今年も世界一周してきた。その話などで盛り上がったが、いつの間にかカウンターが一杯になり、部屋にも客が沢山入ったようで、親方が俄然忙しくなった。
師匠は冷酒を徳利2本。オレは熱燗を徳利2本。程々の酒量で美味しい魚。そして楽しい話。いい時間がゆるゆると流れていく。

3時間もいたのだろうか?師匠も疲れただろう。それぞれタクシーを頼み、師匠はホテルに戻った。親方と若女将がタクシーが見えなくなるまで見送ってくれた。
今朝は弟子の車を借り、オレが運転して師匠を迎えに行った。ホテルに着いたら総支配人のMさんが師匠の相手をしていてくれた。Mさんとは昔から親しくしているので、彼にお願いしていい部屋を用意してもらったのだ。

チェックアウト後、車を久能海岸に走らせた。苺農家のN君が、「苺を食べに来ていいよ」と言ってくれたので師匠を案内した。帰りに朝摘みの苺をお土産にくれた。ついでに、オレが仲人をした枝豆農家のI君も呼び出し、新鮮な枝豆もたっぷり持ってきてもらった。昨夜は末廣鮨の親方からも海苔のお土産を頂いた。

さあ、大変な荷物だ。「どうしますか?」と聞いたら、「持っていくよ」とケロリとしている。「アレ〜?腰が痛いんじゃないの?」「大丈夫!お土産持ってる時は痛くない」
一旦家に寄り、荷物をまとめることにした。ちょうど陶芸の生徒のYさんがいたので、静岡までの運転を頼んだ。「ひかり」までぎりぎりの時間だったが、Yさんのお蔭で間に合った。オレが改札まで荷物を持った。改札を済ませると、「今度は東京で飲もうよ」そう言って師匠は、何個も荷物を抱えながらエレベーターに消えていった。
約束通り、昨日三球師匠が遊びに来た。オレの運転じゃ怖がりそうなので、きくちゃんに車を出してもらって、カミさんとオレの3人で静岡駅まで迎えに行った。
2時6分着「ひかり」が到着。ところが、師匠が一向に現れない。どうしたのかな〜と、キョロキョロしていたら、突然柱の陰から師匠が登場。どうやらエレベーターで降りてきて、一番端の改札口を通り、困っているオレを暫く楽しんで眺めていたらしい。
でも、なんだか様子がおかしい。歩くのがちょっと辛そうだった。「どうしたの?」と聞いたら、数日前に腰を痛めたらしい。「でも約束破りたくないからね〜」師匠は昔から、出来ないことは安請け合いしない。その代り、約束したことはできる限り守る。そんな人なのだ。
やっこらしょっと車に乗り、そのまま日本平ホテルに向かう。オレもホテルが新築して初めてだった。チェックインを済ませ、5階の師匠の部屋を見せてもらった。窓側が全面ガラス張りで、三保全景と富士山が真正面に見える素晴らしい部屋だった。
一階の喫茶室で一時間ほど歓談し、我が家に向かう。ところが山道のドライブでカミさんが酔ってしまった。家について暫く様子を見たが回復しない。仕方ないので、オレと師匠二人だけで「末廣鮨」に向かう。
カウンターの中で親方がニコニコと迎えてくれた。実は、師匠と親方は「飛鳥」仲間で、世界一周の船旅にも一緒に乗っている。師匠は今年も世界一周してきた。その話などで盛り上がったが、いつの間にかカウンターが一杯になり、部屋にも客が沢山入ったようで、親方が俄然忙しくなった。
師匠は冷酒を徳利2本。オレは熱燗を徳利2本。程々の酒量で美味しい魚。そして楽しい話。いい時間がゆるゆると流れていく。
3時間もいたのだろうか?師匠も疲れただろう。それぞれタクシーを頼み、師匠はホテルに戻った。親方と若女将がタクシーが見えなくなるまで見送ってくれた。
今朝は弟子の車を借り、オレが運転して師匠を迎えに行った。ホテルに着いたら総支配人のMさんが師匠の相手をしていてくれた。Mさんとは昔から親しくしているので、彼にお願いしていい部屋を用意してもらったのだ。
チェックアウト後、車を久能海岸に走らせた。苺農家のN君が、「苺を食べに来ていいよ」と言ってくれたので師匠を案内した。帰りに朝摘みの苺をお土産にくれた。ついでに、オレが仲人をした枝豆農家のI君も呼び出し、新鮮な枝豆もたっぷり持ってきてもらった。昨夜は末廣鮨の親方からも海苔のお土産を頂いた。
さあ、大変な荷物だ。「どうしますか?」と聞いたら、「持っていくよ」とケロリとしている。「アレ〜?腰が痛いんじゃないの?」「大丈夫!お土産持ってる時は痛くない」
一旦家に寄り、荷物をまとめることにした。ちょうど陶芸の生徒のYさんがいたので、静岡までの運転を頼んだ。「ひかり」までぎりぎりの時間だったが、Yさんのお蔭で間に合った。オレが改札まで荷物を持った。改札を済ませると、「今度は東京で飲もうよ」そう言って師匠は、何個も荷物を抱えながらエレベーターに消えていった。
2012年12月21日 Posted by 臥游山人 at 22:33 │Comments(0) │交遊録
戦争の予感
昨日の夕方、静岡センチュリーホテルで小さな催しがあって出かけてきた。清和海運の宮崎社長が声をかけ、三日月会を中心に20人余りが集まった。忘年会も兼ねたような会だったが、元外務官僚で、欧亜局長やオランダ大使をやられた東郷和彦氏を迎えて、話を伺ったり一緒に食事を楽しむ会だった。
宮崎さんと東郷さんは小学校、中学校が一緒で、東郷さんの奥様が宮崎さんの従妹なのだそうだ。また、東郷さんは静岡県対外関係補佐官を務めておられ、外交に関する著書も沢山出しておられる。
会は定刻通り6時にスタートした。宮崎さんが一通り東郷さんの紹介をしてから東郷さんの講演が始まった。オレもかねてからご高名は存じていたが、彼が「たかじんの何でも言って委員会」に出演した時の、中国に対する異常とも思えるような怯え方が印象に残っていたので、直接話を聞けるのが楽しみだった。

話が進むにつれ、内容がかなりシリアスになってきた。彼によると、来年、尖閣周辺の海水が温む頃、日本と中国が戦争を起こす可能性が極めて高い。局地戦になるか全面戦争になるかはアメリカ次第だ。アメリカの国益も絡んでおり、いくら日米安保が適用されるといっても、その場合はまず、日本側の血が流れることが前提だという。
又、今のままの沖縄政策が続けば、いずれ沖縄が自立の道を選ぶ。沖縄は、日本、アメリカより、中国にシンパシーを感じている。つまり、沖縄も中国に取られるよ、ということだ。戦後外交の無策が今の状態を招いたと、細かい話を交えながら約1時間話を聞かせてもらった。

講演後、会場を隣の部屋に移して食事会になった。東郷さんの隣に静岡商工会議所会頭の後藤さんが座り、オレは東郷さんの真向かいの席だった。後藤さんが簡単な歓迎の挨拶と乾杯の音頭を取り宴席が始まった。

席が盛り上がった頃、後藤さんが突然席を立ち「ここに座れよ」とオレを手招きした。東郷さんの隣に座れというのだ。せっかくなので好意に甘えることにした。そのお蔭で東郷さんとゆっくり話が出来た。現場にいた人の話は説得力があり、聞いていて震えが走るほどの怖さもあるが、しかし、外交というものはもっと多元的だろうという疑問も湧いた。
東郷さんの列車の時間が近づいたので、元JR東海常務の木村さんが閉会の挨拶をした。何人かはそのまま駅に急ぎ、東京や名古屋に向かう。忙しい人の集まりなので、会が終わってからロビーで寛ぐとか、二次会などは一切ない。アッという間に誰もいなくなる。何時もながらまことに潔い限りだ。仕方がないのでオレも自宅に直帰した。酒のせいばかりでもないだろうが、頭痛が残る、、、
宮崎さんと東郷さんは小学校、中学校が一緒で、東郷さんの奥様が宮崎さんの従妹なのだそうだ。また、東郷さんは静岡県対外関係補佐官を務めておられ、外交に関する著書も沢山出しておられる。
会は定刻通り6時にスタートした。宮崎さんが一通り東郷さんの紹介をしてから東郷さんの講演が始まった。オレもかねてからご高名は存じていたが、彼が「たかじんの何でも言って委員会」に出演した時の、中国に対する異常とも思えるような怯え方が印象に残っていたので、直接話を聞けるのが楽しみだった。
話が進むにつれ、内容がかなりシリアスになってきた。彼によると、来年、尖閣周辺の海水が温む頃、日本と中国が戦争を起こす可能性が極めて高い。局地戦になるか全面戦争になるかはアメリカ次第だ。アメリカの国益も絡んでおり、いくら日米安保が適用されるといっても、その場合はまず、日本側の血が流れることが前提だという。
又、今のままの沖縄政策が続けば、いずれ沖縄が自立の道を選ぶ。沖縄は、日本、アメリカより、中国にシンパシーを感じている。つまり、沖縄も中国に取られるよ、ということだ。戦後外交の無策が今の状態を招いたと、細かい話を交えながら約1時間話を聞かせてもらった。
講演後、会場を隣の部屋に移して食事会になった。東郷さんの隣に静岡商工会議所会頭の後藤さんが座り、オレは東郷さんの真向かいの席だった。後藤さんが簡単な歓迎の挨拶と乾杯の音頭を取り宴席が始まった。
席が盛り上がった頃、後藤さんが突然席を立ち「ここに座れよ」とオレを手招きした。東郷さんの隣に座れというのだ。せっかくなので好意に甘えることにした。そのお蔭で東郷さんとゆっくり話が出来た。現場にいた人の話は説得力があり、聞いていて震えが走るほどの怖さもあるが、しかし、外交というものはもっと多元的だろうという疑問も湧いた。
東郷さんの列車の時間が近づいたので、元JR東海常務の木村さんが閉会の挨拶をした。何人かはそのまま駅に急ぎ、東京や名古屋に向かう。忙しい人の集まりなので、会が終わってからロビーで寛ぐとか、二次会などは一切ない。アッという間に誰もいなくなる。何時もながらまことに潔い限りだ。仕方がないのでオレも自宅に直帰した。酒のせいばかりでもないだろうが、頭痛が残る、、、
2012年12月18日 Posted by 臥游山人 at 20:26 │Comments(0) │交遊録
後楽園
昨日は早めに投票を済ませ、カミさんと一緒に新幹線で上京した。
東京駅で乗り換え、総武線水道橋駅下車。後楽園ドームに向かって進む。

奇抜なコスチュームをした若い娘があちらこちらにたむろしている。
肩には決まったように黄色いバックを掛けている。
そして、そこには“嵐”の文字が、、、

そう!後楽園ドームで嵐のコンサートがあり、全国からファンが集まっているのだ。
オレ達夫婦も心躍らせながら嵐のコンサートに、、、

、、、んな訳ないだろ~~!!。
オレ達の行く先はドームの横の青いビル、後楽園ホールである。
そこでボクシングの全日本新人王決定戦が行われる。それをわざわざ見に来た。

カミさんの従妹、みっこちゃんの息子が去年プロデビューした。まだ大学生だ。
名前は横嶺克則21歳。クラスはフライ級。
日本では層の厚いフライ級で次々と勝利を重ね、去年は4戦4勝(4KO)。
今年も2勝。6戦負けなしで、東日本新人王となった。

そしてこの日、全日本を賭けて西日本代表と戦う。

会場に着いたら、克則君の父親、祖父、叔父、、、見慣れた顔が揃っていた。
見るのが怖いのか、母親始め、女性陣の顔は一切なし。女性はカミさんだけだった。
「ビックボーイズ」の羽生君が大の格闘技ファンなので、羽生君にもチケットを送った。
試合はミニマム級から始まった。東西対抗なので、会場から大きな声援が飛ぶ。
Lフライ級まで東軍の勝ち、そしていよいよ克則君の登場だ。相手は畑中ジム所属の川村琢磨選手。強そうな相手だ。


セレモニーが終わり第一ラウンドのゴングが鳴る。その時、羽生君が息を弾ませながら現れた。舞台を終え飛び出してきたという。良かった良かった、間に合った。もうこうなると写真なんか撮っちゃいられない。
第一、第二、第三ラウンドまでは間違いなく克則君が優勢。しかし、第四ラウンドは互角
の打ち合い。最終第五ラウンドは結構打ち込まれている。頑張れ!克則!持ちこたえれば勝てるぞ!そんな声が会場から悲鳴のように飛び交う。
長い第五ラウンド終了。判定の勝負になった。息をのんで見つめる中、採点結果をリングアナが読み上げた。3対0、克則君の判定勝ち。いや~~、よかった、よかった。



試合が終わってから克則君が私服に着替えてオレ達の席に来た。顔中痛々しいほど腫れ上がっている。おめでとうと手を差し出したが、拳も赤く腫れていた。あれだけ殴り合ったんだから当たり前だよな~。オレは労わるようにそっと手を撫でてきたが、何とも小さく可愛い拳だった。
これで日本ランク入り。一生に一度しかチャンスのない全日本新人王を手にした。頑張れ克則!次は日本チャンピオンだ。期待してるよ。
まだまだクラス毎の試合は続くが、羽生君に別れを告げてオレ達は席を立った。後楽園ホールを出て、水道橋駅に向かうと、更に若い娘達の数が増えていた。中にはかなりの年配のオバさんも、、、夕方6時から始まる「嵐コンサート」に向かう列だ。果たしてこの娘たちは選挙をしてきたのだろうか?彼女たちの頭の中に、今の日本はどう映っているのだろうか?
日本は平和だ、、、平和すぎる、、、表面的には、、、
東京駅で乗り換え、総武線水道橋駅下車。後楽園ドームに向かって進む。
奇抜なコスチュームをした若い娘があちらこちらにたむろしている。
肩には決まったように黄色いバックを掛けている。
そして、そこには“嵐”の文字が、、、
そう!後楽園ドームで嵐のコンサートがあり、全国からファンが集まっているのだ。
オレ達夫婦も心躍らせながら嵐のコンサートに、、、
、、、んな訳ないだろ~~!!。
オレ達の行く先はドームの横の青いビル、後楽園ホールである。
そこでボクシングの全日本新人王決定戦が行われる。それをわざわざ見に来た。

カミさんの従妹、みっこちゃんの息子が去年プロデビューした。まだ大学生だ。
名前は横嶺克則21歳。クラスはフライ級。
日本では層の厚いフライ級で次々と勝利を重ね、去年は4戦4勝(4KO)。
今年も2勝。6戦負けなしで、東日本新人王となった。
そしてこの日、全日本を賭けて西日本代表と戦う。
会場に着いたら、克則君の父親、祖父、叔父、、、見慣れた顔が揃っていた。
見るのが怖いのか、母親始め、女性陣の顔は一切なし。女性はカミさんだけだった。
「ビックボーイズ」の羽生君が大の格闘技ファンなので、羽生君にもチケットを送った。
試合はミニマム級から始まった。東西対抗なので、会場から大きな声援が飛ぶ。
Lフライ級まで東軍の勝ち、そしていよいよ克則君の登場だ。相手は畑中ジム所属の川村琢磨選手。強そうな相手だ。
セレモニーが終わり第一ラウンドのゴングが鳴る。その時、羽生君が息を弾ませながら現れた。舞台を終え飛び出してきたという。良かった良かった、間に合った。もうこうなると写真なんか撮っちゃいられない。
第一、第二、第三ラウンドまでは間違いなく克則君が優勢。しかし、第四ラウンドは互角
の打ち合い。最終第五ラウンドは結構打ち込まれている。頑張れ!克則!持ちこたえれば勝てるぞ!そんな声が会場から悲鳴のように飛び交う。
長い第五ラウンド終了。判定の勝負になった。息をのんで見つめる中、採点結果をリングアナが読み上げた。3対0、克則君の判定勝ち。いや~~、よかった、よかった。
試合が終わってから克則君が私服に着替えてオレ達の席に来た。顔中痛々しいほど腫れ上がっている。おめでとうと手を差し出したが、拳も赤く腫れていた。あれだけ殴り合ったんだから当たり前だよな~。オレは労わるようにそっと手を撫でてきたが、何とも小さく可愛い拳だった。
これで日本ランク入り。一生に一度しかチャンスのない全日本新人王を手にした。頑張れ克則!次は日本チャンピオンだ。期待してるよ。
まだまだクラス毎の試合は続くが、羽生君に別れを告げてオレ達は席を立った。後楽園ホールを出て、水道橋駅に向かうと、更に若い娘達の数が増えていた。中にはかなりの年配のオバさんも、、、夕方6時から始まる「嵐コンサート」に向かう列だ。果たしてこの娘たちは選挙をしてきたのだろうか?彼女たちの頭の中に、今の日本はどう映っているのだろうか?
日本は平和だ、、、平和すぎる、、、表面的には、、、
2012年12月17日 Posted by 臥游山人 at 14:59 │Comments(0) │交遊録
うれし師匠と三球師匠
三球師匠の話を書いたが、どうしてももう一つの思い出を書きたくなった。
数年前に、浅草東洋館で青空うれし師匠の会があったので、友人を誘って出かけた。その時は三球師匠とうれし師匠がコンビを組んで漫才をした。
うれし師匠はよく着ているスーツの上着を脱いで「これあげる」と客席に投げるフリをする。片手で袖をつかんでいるので、上着は客席まで行く手前で戻る。
思わず客席が「ワー」と盛り上がる。そしてやおらネクタイをほどき、今度は本当に投げる。
その時うれし師匠はオレ達が一番前にいるのを知っていたので、オレの友人をめがけてネクタイを投げてくれた。そしてネクタイは無事友人の膝の上に落ちた。
その時だった。前から三列目にいたバーサンが席を立って友人の所に走ってきて、いきなりそのネクタイを奪っていったのだ。友人は体が不自由でとっさにネクタイを掴み取ることができなかった。
それを三球師匠が見ていた。いつもは三球師匠はそんなことをしないのだが、自分もネクタイをほどき、「そこの人だよ」と声を出しながら友人の所に投げてくれた。今度はオレがガッチリと受け止め、友人に手渡した。
うれし師匠77歳、三球師匠79歳。そして、いつか日記に書くつもりでいるさがみ三太師匠73歳。素晴らしい人生の大先輩の知遇を得て、名もない貧乏陶芸家であるが、オレの人生もまんざらでないと、つくづく想うこの頃である。
2012年12月03日 Posted by 臥游山人 at 16:21 │Comments(0) │交遊録
春日三球師匠
前の日記で三球師匠のことに触れたので、少し師匠の事を書いてみたいと思う。
今では三球という名前が正式名になっているが、本当は三休というのが正式名だった。1959年、栗友一休・三休でデビューしたが、ある時、後楽園で仕事をした時に、ポスターを見たら一球・三球と勝手に名前を変えられていたという。普通なら抗議するところだが、「それでもいいや」とそれ以降「三球」で通してきたというから、何とも師匠らしい話だ。
ところが、相方の一休さんが三河島事故で突然の死を遂げてしまった。その年に照代さんと結婚。1965年に奥さんと「春日三球・照代」で夫婦コンビを組んだ。
この時に「地下鉄はどこから入ったんでしょうね。それを考えると夜も眠れなくなっちゃう」のフレーズで一気に有名になり、日本中で名前を知らぬ人がいないほどの人気を得た。やがて1987年に演芸大賞を受賞し、漫才界のトップに登りつめた。
多忙な毎日が体を蝕んでしまったのか、1987年に照代さんが舞台の袖で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
その後も師匠は一人で仕事を続けているが、以前のようにテレビ出演を控え、山登りや街道歩き、世界の船旅、、、などの趣味を楽しんでいる。まさに悠々自適の毎日だ。
オレが師匠と知り合ったのは、20年以上前になる。やはり漫才の青空うれし師匠とハワイに遊びに行った時にうれし師匠から紹介された。その後アメリカ本土にも一緒に旅行したり、清水にも来てもらったりしながら交際を深めさせてもらっている。



師匠との思いで出で一番印象深かった事がある。当時オレは船橋のららぽーとにあるデパート(今はない)の美術画廊で毎年のように個展をやっていた。何回目かの個展の初日、三球師匠が突然会場に現れた。「隣のホテルで知り合いの結婚式があったからついでに覗いてみようと思ってさ」とニコニコしながら、「はい」とオレに何やら手渡した。
見たら、当時ではかなりの金額のお札だった。「どうしたんですか、これ」と尋ねるオレに、「花婿の親父にさ、知り合いの陶芸家が隣で個展をやっているから何か買ってやってよ、と言ってこれだけ貰って来たよ。これで適当にみつくろってくれる?」
後日オレは、この金額以上の作品を送らせてもらったが、話はこれで終わらない。その日、船橋の友人がデパートのバンケットルームでオレの歓迎会を開いてくれた。お礼の意味もあってオレは師匠に、「師匠も良かったら出て下さい」と言ったら、あっさりOKしてくれた。
歓迎会の会場に入るなり師匠は「司会はどうなっているの?」と聞いてきた。「誰か友人がやってくれると思いますよ」と答えるオレに、「俺がやってやるよ」と思いがけない言葉が、、、「師匠、予算が、、、」というオレに、「友達じゃないか、お金なんかいらないよ」と、早速マイクを握った。
さあ、会場は大騒ぎだ。あの春日三球が突然現れて、それも司会をやってくれる。流石プロだ、打ち合わせも一切なしに会場を盛り上げていただいた。
春日三球師匠とはこんな人なのだ。日本の漫才界に金字塔を打ち立て、今や生きながらしてレジェンドとなっている師匠が、こんな貧乏陶芸家のタメグチにも一切嫌な顔をせず、変わらぬ交情を続けて下さる。


いつもオレに、「アンタの死に水は俺が取ってやるよ」って、いやいや逆でしょう師匠。まだまだ若い79歳。益々元気だ。若しかしたら師匠の言う通りに、、、いやいや、、、
今では三球という名前が正式名になっているが、本当は三休というのが正式名だった。1959年、栗友一休・三休でデビューしたが、ある時、後楽園で仕事をした時に、ポスターを見たら一球・三球と勝手に名前を変えられていたという。普通なら抗議するところだが、「それでもいいや」とそれ以降「三球」で通してきたというから、何とも師匠らしい話だ。
ところが、相方の一休さんが三河島事故で突然の死を遂げてしまった。その年に照代さんと結婚。1965年に奥さんと「春日三球・照代」で夫婦コンビを組んだ。
この時に「地下鉄はどこから入ったんでしょうね。それを考えると夜も眠れなくなっちゃう」のフレーズで一気に有名になり、日本中で名前を知らぬ人がいないほどの人気を得た。やがて1987年に演芸大賞を受賞し、漫才界のトップに登りつめた。
多忙な毎日が体を蝕んでしまったのか、1987年に照代さんが舞台の袖で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
その後も師匠は一人で仕事を続けているが、以前のようにテレビ出演を控え、山登りや街道歩き、世界の船旅、、、などの趣味を楽しんでいる。まさに悠々自適の毎日だ。
オレが師匠と知り合ったのは、20年以上前になる。やはり漫才の青空うれし師匠とハワイに遊びに行った時にうれし師匠から紹介された。その後アメリカ本土にも一緒に旅行したり、清水にも来てもらったりしながら交際を深めさせてもらっている。



師匠との思いで出で一番印象深かった事がある。当時オレは船橋のららぽーとにあるデパート(今はない)の美術画廊で毎年のように個展をやっていた。何回目かの個展の初日、三球師匠が突然会場に現れた。「隣のホテルで知り合いの結婚式があったからついでに覗いてみようと思ってさ」とニコニコしながら、「はい」とオレに何やら手渡した。
見たら、当時ではかなりの金額のお札だった。「どうしたんですか、これ」と尋ねるオレに、「花婿の親父にさ、知り合いの陶芸家が隣で個展をやっているから何か買ってやってよ、と言ってこれだけ貰って来たよ。これで適当にみつくろってくれる?」
後日オレは、この金額以上の作品を送らせてもらったが、話はこれで終わらない。その日、船橋の友人がデパートのバンケットルームでオレの歓迎会を開いてくれた。お礼の意味もあってオレは師匠に、「師匠も良かったら出て下さい」と言ったら、あっさりOKしてくれた。
歓迎会の会場に入るなり師匠は「司会はどうなっているの?」と聞いてきた。「誰か友人がやってくれると思いますよ」と答えるオレに、「俺がやってやるよ」と思いがけない言葉が、、、「師匠、予算が、、、」というオレに、「友達じゃないか、お金なんかいらないよ」と、早速マイクを握った。
さあ、会場は大騒ぎだ。あの春日三球が突然現れて、それも司会をやってくれる。流石プロだ、打ち合わせも一切なしに会場を盛り上げていただいた。
春日三球師匠とはこんな人なのだ。日本の漫才界に金字塔を打ち立て、今や生きながらしてレジェンドとなっている師匠が、こんな貧乏陶芸家のタメグチにも一切嫌な顔をせず、変わらぬ交情を続けて下さる。

いつもオレに、「アンタの死に水は俺が取ってやるよ」って、いやいや逆でしょう師匠。まだまだ若い79歳。益々元気だ。若しかしたら師匠の言う通りに、、、いやいや、、、
2012年12月03日 Posted by 臥游山人 at 14:33 │Comments(0) │交遊録
第43回漫才大会
「第43回漫才大会」を見るためにカミさんと一緒に浅草に行って来た。12時頃自宅を出発し、新幹線で浅草に向かう。車窓より見えた富士山が綺麗だったので、思わずシャッターを切った。

東京駅から有楽町に寄り、混んでいない窓口で宝くじを買って3時前に浅草に到着した。ホテルに荷物を置き、フラフラ歩いて、会場の浅草公会堂には3時半ごろ到着した。

ロビーには当日券の客が行列を作っていたが、ビックボーイズのなべちゃんから指定券を入手していたので慌てる必要はない。チャンス青木さんと「ニックス」のトモちゃんがいたので思わず立ち話、、、そこにビックボーイズの羽生くんも現れ、賑やかになって来た。

羽生君に「三球師匠は?」って聞いたら、楽屋にいる筈だという。久しぶりに師匠の顔を見たくなったので楽屋に向かった。舞台の袖のところでナンセンスの岸野猛さんと話をしている師匠を発見。
暫く話をしてから、「これが師匠の遺影になるかも知れないので一緒に写真を撮ろうよ」と言ったら、「イエ~ィ」とVサインをして笑いながら写真に納まってくれた。いつもながらチャーミングだ。

「ところで、終わってから師匠はどうするの?」って聞いたら、何も予定が無いという。「それじゃ、ご馳走するから一緒に飲みましょうよ」と誘ったら、「いいよ」って一発返事。実は今日、なべちゃんが安い居酒屋を予約しているので、こんな冗談も平気で言えるのだ。
いよいよ舞台が始まった。なんと席が一番前だった。足を伸ばせて楽だが、NHKのカメラが舞台から客席を映していた。年末にNHK総合で流すらしいが、どうもカメラの位置が気になって仕方がない。映ってなければいいんだけど、、、
最初は出演者全員が、自分の名入りの大きな紙を持って並んだ。知っている芸人がズラっと並んでいる。三球師匠が真中にいた。見ると、師匠だけすました顔で名前の紙を上下逆にしていた。流石だ。見事にしょっぱなから大ボケをかましている。
ひと組の時間が短く、まるでダイジェストのような舞台だったが、それはそれで面白い。途中、Wコロンの真打昇進と、故リーガル天才・秀才の漫才殿堂入りの発表があった。三球師匠はもう3年前に殿堂入りしている。云わば漫才界の人間国宝みたいな大師匠なのである。
3時間半の漫才大会が終わり、オレは三球師匠と安い居酒屋で飲んだ。勿論なべちゃんも一緒。師匠は、「もう朝からズっとだからさ、途中で失礼するよ」って言っていたのに、最後まで残った。そして、師匠と清水の「末廣鮨」に行く約束をした。実は師匠と末廣の親方とは世界一周の船仲間なのだ。
「じゃあ、又オレの家に泊まる?」って聞いたら、「あんたんところは畳だから嫌だ」と言う。「そうか~、師匠も足腰が弱くなったんだ」と言ったら、「いや、日本平ホテルに泊まりたいんだ」と言う。もう日本平ホテルが新築されて素晴らしいホテルになったことを知っていた。師匠と話していていつも感心するのは、新聞の片隅まで読んでいることだ。
さあ、年末あたりに師匠と飲めるかな、、、 飲みたいな~~。
東京駅から有楽町に寄り、混んでいない窓口で宝くじを買って3時前に浅草に到着した。ホテルに荷物を置き、フラフラ歩いて、会場の浅草公会堂には3時半ごろ到着した。
ロビーには当日券の客が行列を作っていたが、ビックボーイズのなべちゃんから指定券を入手していたので慌てる必要はない。チャンス青木さんと「ニックス」のトモちゃんがいたので思わず立ち話、、、そこにビックボーイズの羽生くんも現れ、賑やかになって来た。

羽生君に「三球師匠は?」って聞いたら、楽屋にいる筈だという。久しぶりに師匠の顔を見たくなったので楽屋に向かった。舞台の袖のところでナンセンスの岸野猛さんと話をしている師匠を発見。
暫く話をしてから、「これが師匠の遺影になるかも知れないので一緒に写真を撮ろうよ」と言ったら、「イエ~ィ」とVサインをして笑いながら写真に納まってくれた。いつもながらチャーミングだ。
「ところで、終わってから師匠はどうするの?」って聞いたら、何も予定が無いという。「それじゃ、ご馳走するから一緒に飲みましょうよ」と誘ったら、「いいよ」って一発返事。実は今日、なべちゃんが安い居酒屋を予約しているので、こんな冗談も平気で言えるのだ。
いよいよ舞台が始まった。なんと席が一番前だった。足を伸ばせて楽だが、NHKのカメラが舞台から客席を映していた。年末にNHK総合で流すらしいが、どうもカメラの位置が気になって仕方がない。映ってなければいいんだけど、、、
最初は出演者全員が、自分の名入りの大きな紙を持って並んだ。知っている芸人がズラっと並んでいる。三球師匠が真中にいた。見ると、師匠だけすました顔で名前の紙を上下逆にしていた。流石だ。見事にしょっぱなから大ボケをかましている。
ひと組の時間が短く、まるでダイジェストのような舞台だったが、それはそれで面白い。途中、Wコロンの真打昇進と、故リーガル天才・秀才の漫才殿堂入りの発表があった。三球師匠はもう3年前に殿堂入りしている。云わば漫才界の人間国宝みたいな大師匠なのである。
3時間半の漫才大会が終わり、オレは三球師匠と安い居酒屋で飲んだ。勿論なべちゃんも一緒。師匠は、「もう朝からズっとだからさ、途中で失礼するよ」って言っていたのに、最後まで残った。そして、師匠と清水の「末廣鮨」に行く約束をした。実は師匠と末廣の親方とは世界一周の船仲間なのだ。
「じゃあ、又オレの家に泊まる?」って聞いたら、「あんたんところは畳だから嫌だ」と言う。「そうか~、師匠も足腰が弱くなったんだ」と言ったら、「いや、日本平ホテルに泊まりたいんだ」と言う。もう日本平ホテルが新築されて素晴らしいホテルになったことを知っていた。師匠と話していていつも感心するのは、新聞の片隅まで読んでいることだ。
さあ、年末あたりに師匠と飲めるかな、、、 飲みたいな~~。