442
我が友じゅんちゃん(すずきじゅんいち)が去年に続きドキュメンタリー映画を製作してる。タイトルは「442」。 でも「442」と聞いて、あぁ~と思い浮かべることが出来るのはかなり年配の人か、軍事オタクと言われる人くらいかもしれないね。
じゅんちゃんは去年「東洋宮武が覗いた時代」という強制収容所を扱ったドキュメンタリーを発表した。これは第二次大戦中にアメリカが日系人に対して行った人種差別を取り上げたものだった。じゅんちゃんは当時の生存者を丹念に捜し出し、その人たちの生の声をフィルムに記録した。当時は、いくらアメリカ国籍を持っていても対戦国の人間として日系人は不当に扱われ、約12万人の日系人が鉄条網と監視塔に囲まれた苛烈な収容所に押し込まれた。
その映画の中に「442」という日系人部隊の事が度々登場してくる。
財産を没収され、収容所に連行され、そんな不当な扱いを受けながらも、日系人の中から若者を中心に兵役を志願する者が続々現れた。それが「442部隊」である。「442部隊」はヨーロッパ戦線に派兵された。そこで目覚ましい戦績を上げ、多数の戦死者を出したものの数々の勲章を得た。そのことがアメリカ社会における日系人の地位を確立することとなったのである。
「442」の生き残りに「もし日本に派兵されていたらどうしましたか?」と聞いたら「祖国の為当然戦ったよ」と平然と答えた、と何かの記事で読んだことがある。祖国?同じ日本人じゃないか?その時オレは釈然としなかったのを憶えている。
「祖国」「人種」「宗教」・・・人類は何回血と涙を流してもこの問題を乗り越えられないし、解決できない。人は「祖国」「人種」「宗教」のいずれかで憎しみを募らせたら平気で人を殺す。それを歴史が繰り返してきたし、今でも世界中で殺戮が行われている。
「国があるから争いが起こる。だから国をなくせば戦争がなくなる」などとお気楽言ってるどこかの党に、この命題を突きつけてやりたいもんだよ。果たしてじゅんちゃんは今度の映画で何を訴えようとしているのだろうか?楽しみだな~。7月頃公開予定だそうだから、皆さんもぜひ観てください。
じゅんちゃんは今ロスに住んでいる。4月には「442」のプロモーションで一時帰国する。きっと合間を見つけて奥さんのるみちゃんと一緒に我が家に遊びに来ると思う。これは久しぶりに美味しい酒が飲めそうだ。待ってるよ、じゅんちゃん!!
じゅんちゃんは去年「東洋宮武が覗いた時代」という強制収容所を扱ったドキュメンタリーを発表した。これは第二次大戦中にアメリカが日系人に対して行った人種差別を取り上げたものだった。じゅんちゃんは当時の生存者を丹念に捜し出し、その人たちの生の声をフィルムに記録した。当時は、いくらアメリカ国籍を持っていても対戦国の人間として日系人は不当に扱われ、約12万人の日系人が鉄条網と監視塔に囲まれた苛烈な収容所に押し込まれた。
その映画の中に「442」という日系人部隊の事が度々登場してくる。
財産を没収され、収容所に連行され、そんな不当な扱いを受けながらも、日系人の中から若者を中心に兵役を志願する者が続々現れた。それが「442部隊」である。「442部隊」はヨーロッパ戦線に派兵された。そこで目覚ましい戦績を上げ、多数の戦死者を出したものの数々の勲章を得た。そのことがアメリカ社会における日系人の地位を確立することとなったのである。
「442」の生き残りに「もし日本に派兵されていたらどうしましたか?」と聞いたら「祖国の為当然戦ったよ」と平然と答えた、と何かの記事で読んだことがある。祖国?同じ日本人じゃないか?その時オレは釈然としなかったのを憶えている。
「祖国」「人種」「宗教」・・・人類は何回血と涙を流してもこの問題を乗り越えられないし、解決できない。人は「祖国」「人種」「宗教」のいずれかで憎しみを募らせたら平気で人を殺す。それを歴史が繰り返してきたし、今でも世界中で殺戮が行われている。
「国があるから争いが起こる。だから国をなくせば戦争がなくなる」などとお気楽言ってるどこかの党に、この命題を突きつけてやりたいもんだよ。果たしてじゅんちゃんは今度の映画で何を訴えようとしているのだろうか?楽しみだな~。7月頃公開予定だそうだから、皆さんもぜひ観てください。
じゅんちゃんは今ロスに住んでいる。4月には「442」のプロモーションで一時帰国する。きっと合間を見つけて奥さんのるみちゃんと一緒に我が家に遊びに来ると思う。これは久しぶりに美味しい酒が飲めそうだ。待ってるよ、じゅんちゃん!!
2010年03月29日 Posted by 臥游山人 at 16:13 │Comments(0) │交遊録
清水に帰るの?
すごいな~!!みんながあきらめかけていたのに、義母が回復しつつある。カミさんからの電話では、声はかすかだが話し始めたという。二か月間眠ったままだったので話がトンチンカンになる時があるらしいが、カミさんの顔を見て「清水に帰るの?」と不安そうに話しかけてきたそうだ。「行かないよ」と言ったら安心して眠りについたという。
それにしてもカミさんが東京に行ってもう二ヶ月半になる。その間、炊事洗濯しながら独り暮らしを続けてきたけど、この分ではまだまだ長くなりそうだ。義母が以前くも膜下で倒れた時は約四カ月の間カミさんがいなかった。今回はどれぐらいになるのかな?
もう四月になる。メチャクチャ忙しくなってきた。ヤングカレッジの教養講座の募集とその受付。現在220名ほどの応募があった。そして、行政への報告書、法務局への書類、総会の準備と、矢継ぎ早に仕事がある。収支決算書の作成と予算案の作成、事業報告と事業計画案の作成、役員変更の書類等々・・・これが大変な量になる。
毎夜パソコンに向かっていて、ふとオレは何をやっているんだろうと思う時がある。「お前の仕事はろくろに向かうことだろう。作品造らずそんなことやっていていいのか?」もう一人のオレが小言を言いだす。
でもな~~。とにかく逃げたくない。千里の道も一歩から、、、やらなきゃいけないことを、今はひとつずつこなしていくしかない。誰のためでもない、オレ自身のためにやらなきゃ、、、。
89の義母があんなに頑張っているんだもの。いや~~、それにしてもすごい。そして嬉しい。
それにしてもカミさんが東京に行ってもう二ヶ月半になる。その間、炊事洗濯しながら独り暮らしを続けてきたけど、この分ではまだまだ長くなりそうだ。義母が以前くも膜下で倒れた時は約四カ月の間カミさんがいなかった。今回はどれぐらいになるのかな?
もう四月になる。メチャクチャ忙しくなってきた。ヤングカレッジの教養講座の募集とその受付。現在220名ほどの応募があった。そして、行政への報告書、法務局への書類、総会の準備と、矢継ぎ早に仕事がある。収支決算書の作成と予算案の作成、事業報告と事業計画案の作成、役員変更の書類等々・・・これが大変な量になる。
毎夜パソコンに向かっていて、ふとオレは何をやっているんだろうと思う時がある。「お前の仕事はろくろに向かうことだろう。作品造らずそんなことやっていていいのか?」もう一人のオレが小言を言いだす。
でもな~~。とにかく逃げたくない。千里の道も一歩から、、、やらなきゃいけないことを、今はひとつずつこなしていくしかない。誰のためでもない、オレ自身のためにやらなきゃ、、、。
89の義母があんなに頑張っているんだもの。いや~~、それにしてもすごい。そして嬉しい。
2010年03月27日 Posted by 臥游山人 at 23:21 │Comments(0) │日々雑感
歌うマジシャン
友人のケンさんからDVDが届いた。ケンさんは日本奇術協会の専務理事を務める日本を代表するマジシャンだ。実はケンさん、去年から体調を崩していた。心配になっていたので、ケンさんを励ますつもりでオレの書いた詩を送った。その詩にケンさんが曲をつけて上野のフォーク居酒屋「旅のつづき・・・」というところで発表したDVDだった。ケンさんは歌が大好きなのだ。自分のマジックショーでも歌を取り入れ独自の世界を切り開いている。
演歌っぽくていささか気恥かしいが、こういう詩だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人を信じて裏切られ 女(ひと)を愛して傷ついた
子犬が親を探すよに 夢を探して彷徨(さまよ)った
思えばオレの青春は 各駅停車の旅だった
ひとつひとつの駅に降り 夢を探してみたけれど
出口の見えない駅ばかり・・・
五十を少し超えた頃 やっと生活(くらし)に陽がさした
人と争うこともなく 孫の笑顔が宝物
そろそろオレも人生の 急行列車に乗ったのか
心の奥に閉じ込めた 残り火仄(ほの)かに揺らすよな
駅がこの先あるだろか・・・
やけを起こした時もある 世間を怨(うら)んだ時もある
そんな昔の想い出を 懐かしんでは涙する
そうしてオレは最終の 特急列車に乗るのだろう
鞄ひとつも持たないで 山の向こうにあるという
夕日に染まる愛の駅・・・
終着駅を目指す旅・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
DVDの中でケンさんは、緊張しつつも楽しそうに歌っていた。国安修二さんというプロが隣で伴奏してくれて、なかなかいい曲になっていた。オレはケンさんの元気そうな顔が見れて嬉しくなった。
ケンさんには今度中学に上がる息子がいる。これが自慢の息子で天才的に落語が上手い。この子がこのたび林家木久扇師匠に弟子入りし、めでたく林家門下となった。ジャンルは違うけど、親子で同じ世界に棲むことになる。これがケンさん嬉しくて仕方がないようだ。歳がいってからの子供なので尚更だろうね。
詩の中では「孫の笑顔が宝物」としたが、ホントは子供のこと。確かケンさんのお父さんも同じ世界だったはず、、、と、いうことは、、、三世代か~~・・・すごいもんだね。
演歌っぽくていささか気恥かしいが、こういう詩だった。
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人を信じて裏切られ 女(ひと)を愛して傷ついた
子犬が親を探すよに 夢を探して彷徨(さまよ)った
思えばオレの青春は 各駅停車の旅だった
ひとつひとつの駅に降り 夢を探してみたけれど
出口の見えない駅ばかり・・・
五十を少し超えた頃 やっと生活(くらし)に陽がさした
人と争うこともなく 孫の笑顔が宝物
そろそろオレも人生の 急行列車に乗ったのか
心の奥に閉じ込めた 残り火仄(ほの)かに揺らすよな
駅がこの先あるだろか・・・
やけを起こした時もある 世間を怨(うら)んだ時もある
そんな昔の想い出を 懐かしんでは涙する
そうしてオレは最終の 特急列車に乗るのだろう
鞄ひとつも持たないで 山の向こうにあるという
夕日に染まる愛の駅・・・
終着駅を目指す旅・・・
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DVDの中でケンさんは、緊張しつつも楽しそうに歌っていた。国安修二さんというプロが隣で伴奏してくれて、なかなかいい曲になっていた。オレはケンさんの元気そうな顔が見れて嬉しくなった。
ケンさんには今度中学に上がる息子がいる。これが自慢の息子で天才的に落語が上手い。この子がこのたび林家木久扇師匠に弟子入りし、めでたく林家門下となった。ジャンルは違うけど、親子で同じ世界に棲むことになる。これがケンさん嬉しくて仕方がないようだ。歳がいってからの子供なので尚更だろうね。
詩の中では「孫の笑顔が宝物」としたが、ホントは子供のこと。確かケンさんのお父さんも同じ世界だったはず、、、と、いうことは、、、三世代か~~・・・すごいもんだね。
2010年03月22日 Posted by 臥游山人 at 21:52 │Comments(0) │交遊録
バカバカしい
余りにバカバカしくて暫く政治ネタは書くまいと思っていたんだけど・・・
漢字も読めないソーリがやっとテレビの画面からフェードアウトしてくれたと思ったら、今度は何やらたどたどしい日本語で、言い訳ばかりしているソーリに取って代わった。
いつ頃から日本は国民から見下されるようなソーリばかりが誕生するようになったのだろうか?ソーリの言葉がこんなにも軽くて底が透けて見えれば、いくらおめでた国民でもそろそろ我慢の限界に近いだろう。
民主党もこのままでは夏の参議院選挙には勝てないだろう。やれ政権交代だ、やれ事業仕訳だ、と大騒ぎしている間に、民主党の体内で不気味に増殖を繰り返していたオザワという癌がスキルスと化している。それなのに誰もこの癌を摘出しようとしない。もっともスキルスならいくら摘出しても治ることはないか??民主党は果たしてこのまま余命宣告を受けることになるのだろうか?このままじゃまじめにやっている人間は可哀そうだ。
ウブカタという政治家がどんな人間か分からないが、「オザワさん辞めなさい」と言って副幹事長を更迭されたと騒いでいる。ならば反オザワの党役員や閣僚も一緒になって「私もオザワさんに辞めてもらいたい」と大合唱すればいいじゃないか。そうなればみんなも更迭されるのか?そんなことは出来ないだろう。今が最高のチャンスだと思うんだけどね。
野党の時は、国会でもメディアでもあれ程勇ましくぶちあげておきながら、与党になった途端に一斉に口を拭いだす。政治家とはかくも厚顔無恥な生き物なのだ。
しかし同じ厚顔無恥でも、自民党は結党以来見事にブレなかった。その政策は大きく分けて次の二点に集約してもいいだろう。
1、 アメリカは日本のご主人様です。
2、 政治は、政治家、官僚、大企業のためのものである。国民は有難くおこぼれをいただきなさい。
ようやく国民が自民党政治の傍若無人に嫌気がさし、鉄槌を振り落としたのが去年の政権交代だったはずなのに、半年でもうこのありさまだ。
バカらしい・・・ホントにバカらしい・・・
2010年03月21日 Posted by 臥游山人 at 12:44 │Comments(0) │日々雑感
魔教の巣窟~清水~
静岡は富士山があるせいか昔から宗教が多い。特にここ清水を魔教の巣窟と呼ぶ人もいるそうだ。現に家から歩いて行ける距離に、PL教団、立正佼成会、円応教、崇教真光、創価学会などがある。その他、仏教寺院、神社、教会、姓名判断や占いをしている宗教法人を入れればさぞものすごい数になるだろう。オレの家の周りでさえそうだから、一体清水にどれほどの宗教法人があるのだろうか?
そして、やはり歩いて15分ほどのところに月見里笠森稲荷(やまなしかさもりいなり)神社がある。5世紀初頭に建立された古い神社だが、ここは源為朝や空海にまつわる故事の残っている由緒のある神社である。
神社の横に三五(あなない)教の本部があったが、今はもうない。何年か前に掛川の方に本部を移した。三五教と月見里笠森稲荷神社にはある人物を介して深いつながりがある。いや、その人物なくして三五教はありえないのだ。
出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)という、戦前に日本国の根幹を震え上がらせた宗教家がいた。彼の率いる大本教は数度にわたり不敬罪や治安維持法で国家から弾圧された。それは本殿をダイナマイトで爆破されるという徹底したものだった。
出口王仁三郎は宗教だけでなく芸術の世界にも長けていた。生涯で十万首以上の和歌を詠んだり、「ようわん」と呼ばれる彩色の抹茶茶わんをたった一年で三千個も造ったという。これは人間の技を超えていた。
その出口王仁三郎が師と仰いだのが月見里笠森稲荷神社の宮司をしていた長澤雄楯だった。その縁で王仁三郎が暫くこの神社に逗留したという。その時、王仁三郎が神懸かりというかトランス状態になったといわれている。
出口王仁三郎には現代の宗教史に輝く錚々たる弟子がいた。世界救世教の岡田茂吉、生長の家の谷口雅春、神道天行居の友清歓真、そして三五教を創設した中野與之助・・・
相次ぐ弾圧で大本教は衰退したが、戦後、清水生まれの中野與之助が月見里笠森稲荷神社の隣に三五教を創立した。そしてこの三五教が今やNGOとして世界中で活動しているオイスカの母体であることを知る人は少ない。浜松には中野学園オイスカ高校がある。今では宗教色を薄めてきてるのか、あまり問題視されてない。ちなみにオイスカの副会長はオザワ幹事長の義兄である。
高校生の頃親父から「これを読んでみろ」と渡されたのが「巨人出口王仁三郎」という本だった。読むにつれその熾烈な生きざまに驚愕したのを覚えている。時がたつにつれオレの頭から王仁三郎は消えかかっていたのだが、ひょんなことから王仁三郎が清水と縁があることを知った。それもオレの家から歩いて行ける所に・・・ふつふつとオレの好奇心が大きく膨らんだ。
今日、天気も良かったので散歩がてら岡町にある月見里笠森稲荷神社に行ってみた。しかし行くときから何か変だった・・・方向も場所も大体分かっているのに、途中で道を失ってしまったのだ。裏道を歩いたのだが、気が付いたら全く方向違いの清水西高の周りをグルグル回っていた。
大慌てで大きな通りに出て神社を目指した。15分程度のところを小一時間かかってたどり着いた。神社は思っていたよりはるかに小さく、閑散としていて人の気配がない。周りには古木が残りそれらしい風情はあるが、何か寒々としてうらぶれていた。
デジタルカメラを持っていたので、神社の周りを廻りながら確か20枚ほど撮影した。財布を持っていなかったので参拝はしなかった。
家に帰りPCに取り込もうとSDカードをハードディスクに差し込んだ。しかし、不思議なことにそこには何にも写っていなかった。間違いなく写したはずなのに・・・オレは超常現象とやらは一切信じないが、何となく薄気味悪い。
清水には、かの田中智学も三保に大きな宗教施設を建てていたらしいし、龍華時には高山樗牛の墓がある。かつてはPL教団の本部も清水にあったという。岡田茂吉も清水で拘留されたと聞く。いや~、奥が深そうだ。そそられるな~、実にそそられる。もっと詳しく調べてみたい。
でもやめた!!今日の出来事は、これ以上魔教の巣窟に踏み込むなと警告された気がする。近いうちに賽銭持ってもう一回神社に行ってこよう。
そして、やはり歩いて15分ほどのところに月見里笠森稲荷(やまなしかさもりいなり)神社がある。5世紀初頭に建立された古い神社だが、ここは源為朝や空海にまつわる故事の残っている由緒のある神社である。
神社の横に三五(あなない)教の本部があったが、今はもうない。何年か前に掛川の方に本部を移した。三五教と月見里笠森稲荷神社にはある人物を介して深いつながりがある。いや、その人物なくして三五教はありえないのだ。
出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)という、戦前に日本国の根幹を震え上がらせた宗教家がいた。彼の率いる大本教は数度にわたり不敬罪や治安維持法で国家から弾圧された。それは本殿をダイナマイトで爆破されるという徹底したものだった。
出口王仁三郎は宗教だけでなく芸術の世界にも長けていた。生涯で十万首以上の和歌を詠んだり、「ようわん」と呼ばれる彩色の抹茶茶わんをたった一年で三千個も造ったという。これは人間の技を超えていた。
その出口王仁三郎が師と仰いだのが月見里笠森稲荷神社の宮司をしていた長澤雄楯だった。その縁で王仁三郎が暫くこの神社に逗留したという。その時、王仁三郎が神懸かりというかトランス状態になったといわれている。
出口王仁三郎には現代の宗教史に輝く錚々たる弟子がいた。世界救世教の岡田茂吉、生長の家の谷口雅春、神道天行居の友清歓真、そして三五教を創設した中野與之助・・・
相次ぐ弾圧で大本教は衰退したが、戦後、清水生まれの中野與之助が月見里笠森稲荷神社の隣に三五教を創立した。そしてこの三五教が今やNGOとして世界中で活動しているオイスカの母体であることを知る人は少ない。浜松には中野学園オイスカ高校がある。今では宗教色を薄めてきてるのか、あまり問題視されてない。ちなみにオイスカの副会長はオザワ幹事長の義兄である。
高校生の頃親父から「これを読んでみろ」と渡されたのが「巨人出口王仁三郎」という本だった。読むにつれその熾烈な生きざまに驚愕したのを覚えている。時がたつにつれオレの頭から王仁三郎は消えかかっていたのだが、ひょんなことから王仁三郎が清水と縁があることを知った。それもオレの家から歩いて行ける所に・・・ふつふつとオレの好奇心が大きく膨らんだ。
今日、天気も良かったので散歩がてら岡町にある月見里笠森稲荷神社に行ってみた。しかし行くときから何か変だった・・・方向も場所も大体分かっているのに、途中で道を失ってしまったのだ。裏道を歩いたのだが、気が付いたら全く方向違いの清水西高の周りをグルグル回っていた。
大慌てで大きな通りに出て神社を目指した。15分程度のところを小一時間かかってたどり着いた。神社は思っていたよりはるかに小さく、閑散としていて人の気配がない。周りには古木が残りそれらしい風情はあるが、何か寒々としてうらぶれていた。
デジタルカメラを持っていたので、神社の周りを廻りながら確か20枚ほど撮影した。財布を持っていなかったので参拝はしなかった。
家に帰りPCに取り込もうとSDカードをハードディスクに差し込んだ。しかし、不思議なことにそこには何にも写っていなかった。間違いなく写したはずなのに・・・オレは超常現象とやらは一切信じないが、何となく薄気味悪い。
清水には、かの田中智学も三保に大きな宗教施設を建てていたらしいし、龍華時には高山樗牛の墓がある。かつてはPL教団の本部も清水にあったという。岡田茂吉も清水で拘留されたと聞く。いや~、奥が深そうだ。そそられるな~、実にそそられる。もっと詳しく調べてみたい。
でもやめた!!今日の出来事は、これ以上魔教の巣窟に踏み込むなと警告された気がする。近いうちに賽銭持ってもう一回神社に行ってこよう。
2010年03月11日 Posted by 臥游山人 at 22:07 │Comments(0) │日々雑感
葉隠れと衆道~花の季節を前に~
中学生の頃、オレは「葉隠れ」という本と出合った。これは、山本常朝という佐賀藩の武士が主の没後に出家し、その10年後に口述したものを田代陣基がまとめたものだ。「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という一文が有名で、武士の心得と死生観を説いたものと云われている。血気盛んなオレにはこの「葉隠れ」が青春のバイブルのようになっていた。
その中に次のような文章があった。
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て申し候。逢いてからは恋の長けが低し。一生思い死にすることこそ恋の本意なれ。」
好きな人がいても告白してはいけない。その思いを死ぬまで秘めておけ、それこそが武士の生き方なのだというのだ。そろそろ色気づいてきたオレにとっては何とも不可解な言葉だった。でも「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあるさ、と勝手に解釈してそれを実践した。
好きな娘がいても気のない振りをする。これがなかなかツライ。ツライからわざと冷たい仕打ちをしてしまったりする。硬派を気取ってはいたが、今から思うと笑っちゃうほど幼かったね。
後年、ある人から「葉隠れの忍ぶ恋ってどういうことか分かるか?」と聞かれたことがある。「どういうことですか?」と尋ねたら「あれはね、男と女のことではないのかも知れないよ」と意味深な答えが返ってきた。「稚児愛って知ってる?」と言われて初めてうっすらと飲みこめてきた。たしか、山本常朝は佐賀藩二代藩主鍋島光成の小姓だった・・・
この話がホントかウソかは定かではないが、その時オレは「オレの青春返してくれ!!」と心の底から叫びたい気持ちで一杯だったよ。
葉隠れという言葉は西行法師の「山家集」~葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に遭う心地する~から来てるともいわれている。西行は武士の出身だったがある高貴な女性との恋愛が破たんして出家したという説がある。そして名前の通り「この世」から「あの世」に向かう漂泊の旅に出たのだろう。
西行は桜の花をこよなく愛した。あの有名な歌「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月の頃」と歌って本当に2月16日の満月の夜、釈迦より一日遅れてあの世に旅立った。
桜には不思議な魅力がある。作家の梶井基次郎もその余りの美しさに「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と感嘆した。特に夜桜の妖しさは、時として狂おしくなる時がある。
もうすぐ桜の季節が到来する。情欲の世界からはとっくにリタイヤしたが、たまにはさんざめく風狂の世界に繰り出そうか。今年は夜桜を見に行こうかな?花の散るころに・・・
その中に次のような文章があった。
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て申し候。逢いてからは恋の長けが低し。一生思い死にすることこそ恋の本意なれ。」
好きな人がいても告白してはいけない。その思いを死ぬまで秘めておけ、それこそが武士の生き方なのだというのだ。そろそろ色気づいてきたオレにとっては何とも不可解な言葉だった。でも「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあるさ、と勝手に解釈してそれを実践した。
好きな娘がいても気のない振りをする。これがなかなかツライ。ツライからわざと冷たい仕打ちをしてしまったりする。硬派を気取ってはいたが、今から思うと笑っちゃうほど幼かったね。
後年、ある人から「葉隠れの忍ぶ恋ってどういうことか分かるか?」と聞かれたことがある。「どういうことですか?」と尋ねたら「あれはね、男と女のことではないのかも知れないよ」と意味深な答えが返ってきた。「稚児愛って知ってる?」と言われて初めてうっすらと飲みこめてきた。たしか、山本常朝は佐賀藩二代藩主鍋島光成の小姓だった・・・
この話がホントかウソかは定かではないが、その時オレは「オレの青春返してくれ!!」と心の底から叫びたい気持ちで一杯だったよ。
葉隠れという言葉は西行法師の「山家集」~葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に遭う心地する~から来てるともいわれている。西行は武士の出身だったがある高貴な女性との恋愛が破たんして出家したという説がある。そして名前の通り「この世」から「あの世」に向かう漂泊の旅に出たのだろう。
西行は桜の花をこよなく愛した。あの有名な歌「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月の頃」と歌って本当に2月16日の満月の夜、釈迦より一日遅れてあの世に旅立った。
桜には不思議な魅力がある。作家の梶井基次郎もその余りの美しさに「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と感嘆した。特に夜桜の妖しさは、時として狂おしくなる時がある。
もうすぐ桜の季節が到来する。情欲の世界からはとっくにリタイヤしたが、たまにはさんざめく風狂の世界に繰り出そうか。今年は夜桜を見に行こうかな?花の散るころに・・・
2010年03月09日 Posted by 臥游山人 at 22:31 │Comments(0) │日々雑感
そんぴん者と辻斬り
「お前はホントにそんぴん者だね~、死んだオジーサンにそっくりだよ」何かあるとお袋がオレに言った言葉である。そんぴんとは山形は米沢地方の方言で、損貧と書く。上杉藩の武士の間で使われた言葉で、「損しても、貪しても、正しいと信じたら頑固一徹筋を通す」という意味である。早い話が頑固者、へそ曲がり、ひねくれ者のこと。
早く亡くなったので余り覚えていないが、オレのジーサンは村では相当のそんぴん者で通っていたらしい。こんな話があった。千両と万両の木のことで村の人と口論になった。ジーサンは千両だと云い、村の人は万両だと互いに譲らない。それじゃあ実がなったら分かるだろうということになった。やがて赤い実がついた。それは万両の実だった。その時ジーサンの言い放った一言が今でも語り継がれている。「たとえ万両の実がついてもこの木は千両だ!!」
オレの家は村でカベヤと呼ばれていた。ジーサンの仕事は今でいう左官業だったらしい。ジーサンは村に侠客が来ると家に泊めたという。村一番のそんぴん者と言われたジーサンには侠客と通じる血が流れていたのかも知れない。
中学生の頃、屋根裏を捜したら杖のようなものを見つけた。ずしりとした杖に金属のボタンのような物があった。恐る恐るボタンを押したらギラリと刀の刃が覗いた。仕込み杖だった。死んだジーサンが隠していたものに違いない。「こりゃ~いいもの見つけたわい」と、オレはお袋に見つからないように時々外に持ち出しては木を斬ったりして遊んだ。しかしそれもいつの間にかなくなってしまった。どうもお袋に気付かれたらしい。
親父からは「お前は辻斬りか??」といつも怒られた。辻斬りとは物騒な言い方だが、どうもオレは理屈が通らないと当たりかまわずバッサリ斬りまくっていたらしい。勿論言論でだよ。家は貧乏だったけど、親父は本を買うなら気前よくお金を出してくれた。オレはベストセラーというのが大嫌いで、人の読まないような理屈っぽい本をたくさん読んでいた。オレもやっぱりそんぴん者だったのかな~?
オレは小さい頃からロジックを組み立てることが好きだった。休みの日など朝から竿一本持って釣りに行き、夕方まで帰らなかった。何かの問題を想定し、ウキを見つめながらあれこれ独りで考えるのが楽しかった。
高校の時、全校オープンでクラス対抗のディベート大会があった。当時一年生だったオレは綿密に質問と答弁を練り上げ、クラスメートに割り振った。想定外の展開になった時はオレが答弁に立った。トーナメント形式だったが、あれよあれよという間に勝ち進み優勝してしまった。
こんなオレをきっと親父は小賢しいと思っていたに違いない。だからオレを辻斬りに例えたのだろう。その親父は56歳でこの世を去った。その頃オレはあることで親父とギクシャクしていた。そしてついに口論になってしまい、オレは親父に言ってはならない一太刀を浴びせてしまった。オレはとうとう親父をも斬ってしまった。そのまま和解することなく親父は白血病で帰らぬ人となった・・・
男には親父を越えなければならない時期がある。それを「親父殺しの時」という。戦国時代には本当に子が親を殺してしまった例があるそうだ。だからオレは親父を凌駕しようとして浴びせた一太刀に後悔はない。ただ、、、もう少し親父には長生きして欲しかった。そうすればいつか、、、お互い裃を脱いでじっくりと盃を重ねることが出来たと思う。それだけがただ哀しい・・・いつもそう思う・・・
そういえば、ジーサンはカベヤ、、、オレはチャワンヤ、、、同じ土を扱う仕事だ。やっぱりお袋の言うようにそんぴん者はそんぴん者に似るんだろう。
早く亡くなったので余り覚えていないが、オレのジーサンは村では相当のそんぴん者で通っていたらしい。こんな話があった。千両と万両の木のことで村の人と口論になった。ジーサンは千両だと云い、村の人は万両だと互いに譲らない。それじゃあ実がなったら分かるだろうということになった。やがて赤い実がついた。それは万両の実だった。その時ジーサンの言い放った一言が今でも語り継がれている。「たとえ万両の実がついてもこの木は千両だ!!」
オレの家は村でカベヤと呼ばれていた。ジーサンの仕事は今でいう左官業だったらしい。ジーサンは村に侠客が来ると家に泊めたという。村一番のそんぴん者と言われたジーサンには侠客と通じる血が流れていたのかも知れない。
中学生の頃、屋根裏を捜したら杖のようなものを見つけた。ずしりとした杖に金属のボタンのような物があった。恐る恐るボタンを押したらギラリと刀の刃が覗いた。仕込み杖だった。死んだジーサンが隠していたものに違いない。「こりゃ~いいもの見つけたわい」と、オレはお袋に見つからないように時々外に持ち出しては木を斬ったりして遊んだ。しかしそれもいつの間にかなくなってしまった。どうもお袋に気付かれたらしい。
親父からは「お前は辻斬りか??」といつも怒られた。辻斬りとは物騒な言い方だが、どうもオレは理屈が通らないと当たりかまわずバッサリ斬りまくっていたらしい。勿論言論でだよ。家は貧乏だったけど、親父は本を買うなら気前よくお金を出してくれた。オレはベストセラーというのが大嫌いで、人の読まないような理屈っぽい本をたくさん読んでいた。オレもやっぱりそんぴん者だったのかな~?
オレは小さい頃からロジックを組み立てることが好きだった。休みの日など朝から竿一本持って釣りに行き、夕方まで帰らなかった。何かの問題を想定し、ウキを見つめながらあれこれ独りで考えるのが楽しかった。
高校の時、全校オープンでクラス対抗のディベート大会があった。当時一年生だったオレは綿密に質問と答弁を練り上げ、クラスメートに割り振った。想定外の展開になった時はオレが答弁に立った。トーナメント形式だったが、あれよあれよという間に勝ち進み優勝してしまった。
こんなオレをきっと親父は小賢しいと思っていたに違いない。だからオレを辻斬りに例えたのだろう。その親父は56歳でこの世を去った。その頃オレはあることで親父とギクシャクしていた。そしてついに口論になってしまい、オレは親父に言ってはならない一太刀を浴びせてしまった。オレはとうとう親父をも斬ってしまった。そのまま和解することなく親父は白血病で帰らぬ人となった・・・
男には親父を越えなければならない時期がある。それを「親父殺しの時」という。戦国時代には本当に子が親を殺してしまった例があるそうだ。だからオレは親父を凌駕しようとして浴びせた一太刀に後悔はない。ただ、、、もう少し親父には長生きして欲しかった。そうすればいつか、、、お互い裃を脱いでじっくりと盃を重ねることが出来たと思う。それだけがただ哀しい・・・いつもそう思う・・・
そういえば、ジーサンはカベヤ、、、オレはチャワンヤ、、、同じ土を扱う仕事だ。やっぱりお袋の言うようにそんぴん者はそんぴん者に似るんだろう。