なんとかに刃物
昨年の暮れ、父の代から付き合いのあるTさんから一通のメールが届いた。そこには「貴君の父上が存命の頃預かったものをお返ししたい」と書かれていた。Tさんは70歳を前にして身辺整理を始め、今まで蒐集した美術品などを美術館か博物館に寄贈しているという。それらの整理をしているときに親父からの預かり品を発見したらしい。
一月に上京した時にTさんの住む府中までカミさんと出かけた。Tさんは布袋に包まれたひと振りの短刀をオレに見せた。刀身の巾が1㎝もあり分厚く、ずっしりと重い。所謂「鎧通し」と言われるものだ。

「それにしても40年近く前のことをよく覚えていましたね」と言ったら、「忘れたくても忘れらんないよ」と言って、その時のいきさつを話してくれた。
ある時、親父がこの鎧通しを持ってTさんの家を訪ねたのだそうだ。着くなり「これを預って欲しい」と差し出した。「どうしたんですか?」と聞くと、「近頃せがれ(どうもオレのことらしい)の奴が物騒で仕方がない。こんな物家に置いといてせがれが見つけたらただじゃ済みそうにない。どうか預ってくれ」と真顔で頼んだという。

この鎧通し、由緒があるのだそうだ。オレの曽祖父が会津戊辰戦争の際、最後の会津藩主、松平容保(かたもり)より拝領したもので、作は土佐吉光という。確かに吉光は短刀作りの名手だったようだが、これが本物かどうかは分からない。柄の所に葵の紋らしきものもあるのでそう悪いものでもないのかもしれない。

「なんとかに刃物」と言うが、あの頃のオレは2年ぶりにアフリカから帰ってきて、日本のペースについて行けず、絶えずイライラしていたな~。特に親父とはいつもぶつかっていた。親父もオレを一切甘やかさなかった。
Tさんは、「あの頃のお前さんは傍で見ていてもハラハラしたよ。ところ構わず誰にでも突っかかって行ったからな~、親父さんはお前さんのことを、あいつは辻斬りのような奴だとよくこぼしていたよ」と笑いながら教えてくれた。
「もういいだろうと思ってサ」Tさんはまっすぐオレに向き直り、この鎧通しを手渡してくれた。
もうオレも今年62だよ。この年になって斬った張ったはないでしょう、、、っていうか、そんな気力はもうございませんです。Tさんに丁寧にお礼を述べて返してもらった。
さあ、返してもらえばこっちのもんだよ。みなさ~~ん、これから家に遊びに来るときは決してオレを怒らせないでね。あるよ~、鎧通しが家には、、、お土産もたっぷりお願いしまっせ~。なんとかに刃物だからね~~。
一月に上京した時にTさんの住む府中までカミさんと出かけた。Tさんは布袋に包まれたひと振りの短刀をオレに見せた。刀身の巾が1㎝もあり分厚く、ずっしりと重い。所謂「鎧通し」と言われるものだ。
「それにしても40年近く前のことをよく覚えていましたね」と言ったら、「忘れたくても忘れらんないよ」と言って、その時のいきさつを話してくれた。
ある時、親父がこの鎧通しを持ってTさんの家を訪ねたのだそうだ。着くなり「これを預って欲しい」と差し出した。「どうしたんですか?」と聞くと、「近頃せがれ(どうもオレのことらしい)の奴が物騒で仕方がない。こんな物家に置いといてせがれが見つけたらただじゃ済みそうにない。どうか預ってくれ」と真顔で頼んだという。
この鎧通し、由緒があるのだそうだ。オレの曽祖父が会津戊辰戦争の際、最後の会津藩主、松平容保(かたもり)より拝領したもので、作は土佐吉光という。確かに吉光は短刀作りの名手だったようだが、これが本物かどうかは分からない。柄の所に葵の紋らしきものもあるのでそう悪いものでもないのかもしれない。
「なんとかに刃物」と言うが、あの頃のオレは2年ぶりにアフリカから帰ってきて、日本のペースについて行けず、絶えずイライラしていたな~。特に親父とはいつもぶつかっていた。親父もオレを一切甘やかさなかった。
Tさんは、「あの頃のお前さんは傍で見ていてもハラハラしたよ。ところ構わず誰にでも突っかかって行ったからな~、親父さんはお前さんのことを、あいつは辻斬りのような奴だとよくこぼしていたよ」と笑いながら教えてくれた。
「もういいだろうと思ってサ」Tさんはまっすぐオレに向き直り、この鎧通しを手渡してくれた。
もうオレも今年62だよ。この年になって斬った張ったはないでしょう、、、っていうか、そんな気力はもうございませんです。Tさんに丁寧にお礼を述べて返してもらった。
さあ、返してもらえばこっちのもんだよ。みなさ~~ん、これから家に遊びに来るときは決してオレを怒らせないでね。あるよ~、鎧通しが家には、、、お土産もたっぷりお願いしまっせ~。なんとかに刃物だからね~~。
2011年01月24日 Posted by 臥游山人 at 18:56 │Comments(0) │日々雑感
空海敬慕
30代の頃だったか「空海の風景」や「曼荼羅の人」など、弘法大師、空海のことを書いた書物を貪るように読んだ記憶がある。
オレの人生で一番懇意にしていただいた、というより可愛がってもらった宗教家が真言宗高野山派大阿闍梨の高田眞光老師だった。老師の住む兵庫県の三木市には友人とよく通った。老師に高野山も案内してもらい、一般人が入れないような所も見せていただいた。
その老師も既に黄泉に旅立たれた。前日まで普通に語り、笑って床につき、翌朝家人が起こしに行ったら、手を胸の上で組んで、まさに生きてるような表情で永眠されたという。
オレの宗派は時宗と云って一遍上人が宗祖になる。日本の芸事の走りと云われる「念仏踊り」で鎌倉時代に一大ブームを巻き起こした宗派であるが、今はその面影はない。藤沢の「遊行寺」が本山になる。菩提寺は山形にある。
オレは子供がいないこともあり、その墓を弟たちに任せている。先祖と両親が眠るその墓に入るつもりもない。家内には常々「どこに撒いてもいいから散骨してよ」と頼んでいる。散骨出来なかったら今流行っている「樹木葬」でもいいと思っていた。
昨日カミさんと二人でカミさんの菩提寺を訪ねた。西新井駅から東武線に乗り、東武動物公園駅で乗り継ぎ、更に久喜駅で乗り継ぐ、そして羽生駅で秩父線に乗り変える。オレに取ってはちょっとした旅である。羽生駅から四つ目にあるひなびた東行田駅の真ん前に、目指す「長久寺」があった。
「長久寺」は、檀家数六百を超す真言宗智山派の名刹だ。本堂も近年新築し、境内には弘法大師の石像がある。住職とご母堂が暖かくオレ達夫婦を迎えてくれた。
実は寺を訪れたのには訳があった。義母の49日の段取りもあったのだが、オレ達は大きな悩みを抱えていた。カミさんには兄がいる。しかしその兄には事情があって先祖の墓を守ることが出来そうにないのだ。それなら永代供養してもらうしかないのか、、、そんな悩みを正直に住職に切り出してみた。
「あなた達が見たらどうですか?」住職が慈愛に満ちた優しい口調で、いとも簡単に答えてくれた。「えっ、私は嫁いでいて名字が違うし、後を見てくれる子供もいないんですよ」とカミさんが云うと、「お気持ちの問題だから、名字が違ってもいいんです。そしてあなた達がお墓に入ってもいいんですよ。誰が後を見てくれるかなんて今答えを出す必要もありません。その時になったらその時に一番いい方法を考えればいいんですよ」と云ってくれた。それを聞いて、カミさんは何か憑きものが落ちたように穏やかな顔になっていった。
義母の戒名をいただき、位牌のお願いをしてから庫裡を辞し、先祖のお墓に線香と花を供えて、又のんびりした秩父線の列車に乗った。カミさんに「オレの骨はどうなるのかな?」と聞いてみたら「それは私の決めることだから」と笑っていた。そりゃそうだ。オレが死んだ後のことはカミさんに任せるしかない。まっ、いいか、、、オレも笑った。
弘法大師、空海に一歩近づいた気がした。
オレの人生で一番懇意にしていただいた、というより可愛がってもらった宗教家が真言宗高野山派大阿闍梨の高田眞光老師だった。老師の住む兵庫県の三木市には友人とよく通った。老師に高野山も案内してもらい、一般人が入れないような所も見せていただいた。
その老師も既に黄泉に旅立たれた。前日まで普通に語り、笑って床につき、翌朝家人が起こしに行ったら、手を胸の上で組んで、まさに生きてるような表情で永眠されたという。
オレの宗派は時宗と云って一遍上人が宗祖になる。日本の芸事の走りと云われる「念仏踊り」で鎌倉時代に一大ブームを巻き起こした宗派であるが、今はその面影はない。藤沢の「遊行寺」が本山になる。菩提寺は山形にある。
オレは子供がいないこともあり、その墓を弟たちに任せている。先祖と両親が眠るその墓に入るつもりもない。家内には常々「どこに撒いてもいいから散骨してよ」と頼んでいる。散骨出来なかったら今流行っている「樹木葬」でもいいと思っていた。
昨日カミさんと二人でカミさんの菩提寺を訪ねた。西新井駅から東武線に乗り、東武動物公園駅で乗り継ぎ、更に久喜駅で乗り継ぐ、そして羽生駅で秩父線に乗り変える。オレに取ってはちょっとした旅である。羽生駅から四つ目にあるひなびた東行田駅の真ん前に、目指す「長久寺」があった。
「長久寺」は、檀家数六百を超す真言宗智山派の名刹だ。本堂も近年新築し、境内には弘法大師の石像がある。住職とご母堂が暖かくオレ達夫婦を迎えてくれた。
実は寺を訪れたのには訳があった。義母の49日の段取りもあったのだが、オレ達は大きな悩みを抱えていた。カミさんには兄がいる。しかしその兄には事情があって先祖の墓を守ることが出来そうにないのだ。それなら永代供養してもらうしかないのか、、、そんな悩みを正直に住職に切り出してみた。
「あなた達が見たらどうですか?」住職が慈愛に満ちた優しい口調で、いとも簡単に答えてくれた。「えっ、私は嫁いでいて名字が違うし、後を見てくれる子供もいないんですよ」とカミさんが云うと、「お気持ちの問題だから、名字が違ってもいいんです。そしてあなた達がお墓に入ってもいいんですよ。誰が後を見てくれるかなんて今答えを出す必要もありません。その時になったらその時に一番いい方法を考えればいいんですよ」と云ってくれた。それを聞いて、カミさんは何か憑きものが落ちたように穏やかな顔になっていった。
義母の戒名をいただき、位牌のお願いをしてから庫裡を辞し、先祖のお墓に線香と花を供えて、又のんびりした秩父線の列車に乗った。カミさんに「オレの骨はどうなるのかな?」と聞いてみたら「それは私の決めることだから」と笑っていた。そりゃそうだ。オレが死んだ後のことはカミさんに任せるしかない。まっ、いいか、、、オレも笑った。
弘法大師、空海に一歩近づいた気がした。