袖すりあえなかった人達 ~3~
新天地清水での生活は予想を超えた厳しさがあった。自転車操業というか、明日の米代を心配するほどの毎日が続いた。それでも若いというのは有難い。辛いと思ったことはなかった。オレは日々増えていく友人知己に励まされ助けられながら創作活動を続けることが出来た。
そんな折、富山のA画廊から個展の話が舞い込んだ。富山は未知の土地だが、文化のレベルが高いと聞いていたのでやらせてもらうことにした。それが縁でその画廊の出品作家が毎年富山で行う忘年会にオレも参加することになる。
「冬星会」と名付けられたその忘年会は想像を絶したものだった。生地温泉の「田中屋」という温泉を一晩借り切って行う。富山湾で獲れる寒ブリ、ズワイガニ、本マグロなどを山盛り並べ、富山の銘酒を浴びるほど飲む。疲れたら温泉に入る。そして又話の輪に潜り込む。談論風発、朝方まで誰も寝ない。良く飲み、良く喰らい、良く喋った。
みんなこの忘年会を楽しみに日本中から駆け付けてくる。メンバーは、中村清治、橋本博英、進藤蕃、笠井誠一、江口週など、日本を代表する画家や彫刻家が主だったが、時々面白いゲストも参加する。三國一郎さんもその一人だった。人柄も語り口同様温和で、人の話を聞くのが上手い。オレのアフリカ話に興味を持ったらしくラジオに出演してくれないかと頼まれたがそのままになってしまった・・・
当時NHKのアナウンサーだった山川静夫さんも忘年会の常連だった。山川さんは酒が入ると面白い人だった。キャンディーズやピンクレディの歌が好きで振りを付けて歌ってくれた。その山川さんが連れてきたのが当時「海」の編集長をしていた村松友視だった。話してみたら何と村松さんは清水出身で、共通の知人がいたりして意気投合した。
「清水で会いましょうよ」と約束して別れたが、「私、プロレスの味方です」を出版して、あれよあれよという間に売れっ子作家になってしまった。後日オレの行きつけのスナックで顔を合わせたが、忙しそうで一言三言会話を交わしただけで別れてしまった。山川静夫さんもオレの個展にご夫妻で来てくれたりしたのだが、ここのところ縁が遠くなってしまった。
これも古い話になるが、作曲家の山本直純さんが主催する年末の麻雀大会に毎年誘われるようになった。渋谷のNHK近くの雀荘を借り切って行うのだが、すごいメンバーが集まった。NHKのプロデューサーは勿論のこと、「夢千代日記」「必殺シリーズ」の早坂暁、「時間ですよ」の久世光彦、「話の特集」の矢崎泰久、女優の中山千夏、岸田今日子・・・どこを向いてもテレビで見た顔がいる、、、岸田さんは何とも色っぽかった・・・
印象深かったのは池田満寿夫、佐藤陽子夫妻だろうか。池田さんは子供のような純粋な人だった。いくら振り込んでも「おかしいな~~、俺もっと強いんだけどな~??」とにこにこしながらハコテンになってくれた。陽子さんは気の強さを全面に漂わせている女性だった。仲睦じく見えたけど、オレはクワバラクワバラ・・・
同じ参加者に、人気番組「笑点」の筆頭作家で、「あなたの知らない世界」でも知られる新倉イワオ先生もいた。バレリーナ出身の奥さんと一緒に毎年参加していた。ご夫妻で清水にも何回か遊びに来て、狭い我が家で雀卓を囲んだこともあった。オレは霊の世界には何の興味もなかったが、先生は何も言わず付き合ってくれたっけ。
前田隣という気になる芸人がいた。「赤上げて~」の旗上げコントと「親ガメの背中に子亀を乗せて」で一世を風靡したナンセンストリオのメンバーだった。親しみを込めてダーリンさんと呼ばれ、末期癌を宣告されてからも舞台に立ち続けた。ビートたけしにも多大な影響を与えた、まさに最後の浅草芸人といっても過言ではない人だった。
数年前、浪曲漫談のさがみ三太師匠に紹介され、オレは「浅草東洋館」にダーリン師匠を訪ねた。師匠はオレの顔を見るなり「あなたとは初めて会った気がしませんね」と言った。オレはその時確信した。「この人とは付き合えそうだ」と。
しかし、オレの期待はつかの間だった。あれ程「癌では死なないのがオレの特技」と豪語していたのにダーリン師匠は去年の2月黄泉に旅立ってしまった。
さあ、オレの人生も残り少なくなってきた。袖すり合うも多生の縁という。果たしてこの先どんな出会いが待ってるのだろうか?
そんな折、富山のA画廊から個展の話が舞い込んだ。富山は未知の土地だが、文化のレベルが高いと聞いていたのでやらせてもらうことにした。それが縁でその画廊の出品作家が毎年富山で行う忘年会にオレも参加することになる。
「冬星会」と名付けられたその忘年会は想像を絶したものだった。生地温泉の「田中屋」という温泉を一晩借り切って行う。富山湾で獲れる寒ブリ、ズワイガニ、本マグロなどを山盛り並べ、富山の銘酒を浴びるほど飲む。疲れたら温泉に入る。そして又話の輪に潜り込む。談論風発、朝方まで誰も寝ない。良く飲み、良く喰らい、良く喋った。
みんなこの忘年会を楽しみに日本中から駆け付けてくる。メンバーは、中村清治、橋本博英、進藤蕃、笠井誠一、江口週など、日本を代表する画家や彫刻家が主だったが、時々面白いゲストも参加する。三國一郎さんもその一人だった。人柄も語り口同様温和で、人の話を聞くのが上手い。オレのアフリカ話に興味を持ったらしくラジオに出演してくれないかと頼まれたがそのままになってしまった・・・
当時NHKのアナウンサーだった山川静夫さんも忘年会の常連だった。山川さんは酒が入ると面白い人だった。キャンディーズやピンクレディの歌が好きで振りを付けて歌ってくれた。その山川さんが連れてきたのが当時「海」の編集長をしていた村松友視だった。話してみたら何と村松さんは清水出身で、共通の知人がいたりして意気投合した。
「清水で会いましょうよ」と約束して別れたが、「私、プロレスの味方です」を出版して、あれよあれよという間に売れっ子作家になってしまった。後日オレの行きつけのスナックで顔を合わせたが、忙しそうで一言三言会話を交わしただけで別れてしまった。山川静夫さんもオレの個展にご夫妻で来てくれたりしたのだが、ここのところ縁が遠くなってしまった。
これも古い話になるが、作曲家の山本直純さんが主催する年末の麻雀大会に毎年誘われるようになった。渋谷のNHK近くの雀荘を借り切って行うのだが、すごいメンバーが集まった。NHKのプロデューサーは勿論のこと、「夢千代日記」「必殺シリーズ」の早坂暁、「時間ですよ」の久世光彦、「話の特集」の矢崎泰久、女優の中山千夏、岸田今日子・・・どこを向いてもテレビで見た顔がいる、、、岸田さんは何とも色っぽかった・・・
印象深かったのは池田満寿夫、佐藤陽子夫妻だろうか。池田さんは子供のような純粋な人だった。いくら振り込んでも「おかしいな~~、俺もっと強いんだけどな~??」とにこにこしながらハコテンになってくれた。陽子さんは気の強さを全面に漂わせている女性だった。仲睦じく見えたけど、オレはクワバラクワバラ・・・
同じ参加者に、人気番組「笑点」の筆頭作家で、「あなたの知らない世界」でも知られる新倉イワオ先生もいた。バレリーナ出身の奥さんと一緒に毎年参加していた。ご夫妻で清水にも何回か遊びに来て、狭い我が家で雀卓を囲んだこともあった。オレは霊の世界には何の興味もなかったが、先生は何も言わず付き合ってくれたっけ。
前田隣という気になる芸人がいた。「赤上げて~」の旗上げコントと「親ガメの背中に子亀を乗せて」で一世を風靡したナンセンストリオのメンバーだった。親しみを込めてダーリンさんと呼ばれ、末期癌を宣告されてからも舞台に立ち続けた。ビートたけしにも多大な影響を与えた、まさに最後の浅草芸人といっても過言ではない人だった。
数年前、浪曲漫談のさがみ三太師匠に紹介され、オレは「浅草東洋館」にダーリン師匠を訪ねた。師匠はオレの顔を見るなり「あなたとは初めて会った気がしませんね」と言った。オレはその時確信した。「この人とは付き合えそうだ」と。
しかし、オレの期待はつかの間だった。あれ程「癌では死なないのがオレの特技」と豪語していたのにダーリン師匠は去年の2月黄泉に旅立ってしまった。
さあ、オレの人生も残り少なくなってきた。袖すり合うも多生の縁という。果たしてこの先どんな出会いが待ってるのだろうか?
2010年02月28日 Posted by 臥游山人 at 15:42 │Comments(0) │交遊録
袖すりあえなかった人達 ~2~
アフリカには二年間滞在したが、オレは早く日本に帰りたくてウズウズしていた。親父からも「お前のために陶房を開いて待っている」という手紙が届いていた。
そしていよいよ帰国の時がきた。途中セイシェルのマヘ島で体を休め、日本に着いたのは1972年8月の暑い盛りだった。オレは希望に胸を膨らませて親父が住む八王子に向かった。しかし「無相庵」と名付けられた陶房に足を踏み入れたその瞬間、オレは唖然とした。
そこにはもうすでに住人が溢れていた。親父を頼って人が集まり、人のいい親父は断れず、あっという間に大所帯に膨れ上がったらしい。佐賀県の有田から来たという子供を連れた夫婦もいた。
その中に、「ひとり寝の子守唄」などのヒットを飛ばしていたお登紀さんこと、加藤登紀子がいた。当時親父は彼女の夫君である藤本敏夫を訳があって預かっていた。いよいよ彼が刑務所に入る時お登紀さんは身ごもっており、それを心配した藤本さんが「子供が生まれるまで面倒を見てください」と親父に頼んだのだった。
襖一枚を隔てた隣がお登紀さんの部屋だった。彼女の弾くギターの音が毎夜聞こえてくる。確かあの時作曲した歌がある筈だ。彼女とは数カ月に亘り同じ釜の飯を食ったのだが、オレとはどうも波長が合わなかった。陶芸は勿論、毛筆の手ほどきも親父から受けたらしく盛んに書を書いていた。自分に才能があると信じて疑わない、オレはそんな彼女の姿勢に謙虚さを感じることが出来なかった。あくの強い癖のある字を書いていたが、それは芸能界に生きる人間の性なのかもしれないナ・・・
ある人が「あれは書を書いてるのではなく、恥をかいているんだよ」と見事に喝破していた。お登紀さんもそんなオレに好意を持つわけがない。やがて無事に子供が生まれてお登紀さんは千駄ヶ谷の自宅に戻って行った。因みに彼女の書いた「加藤登紀子の男模様」という本の252ページに親父のことが書かれている。又、親父の葬儀の時には弔辞を読んでくれた・・・素直に感謝しなければいけないんだろうけどネ・・・
やはり同じ頃「トアエモア」を解散したばかりの山室恵美子(現姓白鳥恵美子)さんも焼き物をやりに無相庵陶房に来ていた。彼女は確かその時保母さんをしていたと思うが、初々しく清楚でホントに可愛かったナ~。でも口数の少ない女性だった。オレも何となく意識してしまいあんまり話が出来なかった。今思うともっと話をすれば良かったな~と、返す返すも残念だ・・・
しかしオレは梁山泊と化した無相庵が窮屈になり、親父ともぎくしゃくしてしまった。カミさんと結婚したばかりだったが、オレは思い切って誰も知り合いのいない清水に窯を移し、新しいスタートを切ることにした。
そしていよいよ帰国の時がきた。途中セイシェルのマヘ島で体を休め、日本に着いたのは1972年8月の暑い盛りだった。オレは希望に胸を膨らませて親父が住む八王子に向かった。しかし「無相庵」と名付けられた陶房に足を踏み入れたその瞬間、オレは唖然とした。
そこにはもうすでに住人が溢れていた。親父を頼って人が集まり、人のいい親父は断れず、あっという間に大所帯に膨れ上がったらしい。佐賀県の有田から来たという子供を連れた夫婦もいた。
その中に、「ひとり寝の子守唄」などのヒットを飛ばしていたお登紀さんこと、加藤登紀子がいた。当時親父は彼女の夫君である藤本敏夫を訳があって預かっていた。いよいよ彼が刑務所に入る時お登紀さんは身ごもっており、それを心配した藤本さんが「子供が生まれるまで面倒を見てください」と親父に頼んだのだった。
襖一枚を隔てた隣がお登紀さんの部屋だった。彼女の弾くギターの音が毎夜聞こえてくる。確かあの時作曲した歌がある筈だ。彼女とは数カ月に亘り同じ釜の飯を食ったのだが、オレとはどうも波長が合わなかった。陶芸は勿論、毛筆の手ほどきも親父から受けたらしく盛んに書を書いていた。自分に才能があると信じて疑わない、オレはそんな彼女の姿勢に謙虚さを感じることが出来なかった。あくの強い癖のある字を書いていたが、それは芸能界に生きる人間の性なのかもしれないナ・・・
ある人が「あれは書を書いてるのではなく、恥をかいているんだよ」と見事に喝破していた。お登紀さんもそんなオレに好意を持つわけがない。やがて無事に子供が生まれてお登紀さんは千駄ヶ谷の自宅に戻って行った。因みに彼女の書いた「加藤登紀子の男模様」という本の252ページに親父のことが書かれている。又、親父の葬儀の時には弔辞を読んでくれた・・・素直に感謝しなければいけないんだろうけどネ・・・
やはり同じ頃「トアエモア」を解散したばかりの山室恵美子(現姓白鳥恵美子)さんも焼き物をやりに無相庵陶房に来ていた。彼女は確かその時保母さんをしていたと思うが、初々しく清楚でホントに可愛かったナ~。でも口数の少ない女性だった。オレも何となく意識してしまいあんまり話が出来なかった。今思うともっと話をすれば良かったな~と、返す返すも残念だ・・・
しかしオレは梁山泊と化した無相庵が窮屈になり、親父ともぎくしゃくしてしまった。カミさんと結婚したばかりだったが、オレは思い切って誰も知り合いのいない清水に窯を移し、新しいスタートを切ることにした。
2010年02月25日 Posted by 臥游山人 at 16:00 │Comments(0) │交遊録
袖すりあえなかった人達 ~1~
よく人から「友達多くていいね」と言われるが、「でもオレ、幼馴染や同級生の友達殆どいないよ」と言うと「ヘェ~~?」と一様に不思議がられる。そう!オレは幼馴染や同級生は単なる知り合いだと思っている。
オレの友達は殆ど社会に出てから出会った人ばかりだ。年齢も、生まれた所も、仕事も違う、見ず知らずの人との一瞬の出会い。お互いに魅力を感じたら、小さな接点を大事にしてそこから友情を育んでいく、、、それこそが友人と考えている。
人生には出会いが溢れている。生きていれば人は沢山の人と出会える。その出会いを上手く生かせた人が友人に恵まれる。努力なしで友人は生まれない。しかし、オレには折角の出会いがありながら友人になれなかった人達が沢山いる。そんなことを書いてみたい。
今から約40年前、今は亡きオレの親父が創設した青年海外協力隊で、アフリカのタンザニアに二年間派遣された。ある時、ダルエスサラームの協力隊事務所にいたら数人の日本人が飛び込んできた。話を聞いてみると、車上荒らしにあって身ぐるみ剥がされたという。
オレが通訳になって警察に被害届を出したけど、結局犯人は捕まらなかった。オレは気の毒になって新品の下着を全員にプレゼントしたのだが、その中に飛びぬけて男前が一人いた。初代ウルトラマンの黒部進だった。しかしオレはその時ウルトラマンを知らなかった。
もう一人、横田紀一郎という何とも得体の知れない、貧相(失礼)な顔つきの男がいた。後で聞いたら三流週刊誌にヨタ記事を書いて売文稼業をしているという。この時は日本の車のCM撮影に来たと言っていた。事実海岸で車の撮影をした。その時お礼にと言ってオレを助手席に乗せてくれた。あの話が本当だったらオレはCMに映っているはずだが、残念ながら今では調べようがない。だが、いつの間にか彼らは挨拶もなしにオレの前から姿を消した。
世の中不思議なもので、後日オレはウルトラマンのチーフプロデューサー鈴木清さんと仲良くなった。その話をしたら「俺が黒部に言っとくよ」と清さんが言ってくれたが、「もう時効ですから」とオレは笑って話をそらした。
そして横田紀一郎である。パリ・ダカールラリーに日本人として初めて挑戦、二回のクラス優勝を果たし、その後世界中のラリーに参戦している横田紀一郎という男がいる。同一人物か定かではないが、そうであってほしくないとオレは思っている。
やはりアフリカで偶然出会った人に伊谷純一郎さんがいる。ご飯粒が食べたいと言っていたので、「じゃぁ、家に来ますか?」と言ったらそのままついてきた。伊谷さんはオレの手料理を美味しそうに食べてくれた。実はこの人こそ、人類学のノーベル賞と云われる「トーマス・ハックスリー賞」を日本人で初めて受賞した、日本が誇る文化人類学者である。当時彼はチンパンジーやゴリラの生態研究のためにタンザニアに滞在していたのだ。
40年も前の話なのでかなりうろ覚えであるが、確か「日本沈没」という本を書いた小松左京さんや、「沈まぬ太陽」の実在のモデルとなった小倉寛太郎さんにも会ったと思う。小松さんは旅行で来ていたが、小倉さんは日航の左遷に遭いアフリカに赴任していた。
小倉さんは退職してからもアフリカに度々出掛け、アフリカを愛する人達に声を掛けて「サバンナクラブ」という会を作っていた。オレも声を掛けられたのだが、オレは何故か入会しなかった。その理由が今でも思い浮かばない。「サバンナクラブ」にはドリフターズのいかりや長介や、寅さんの渥美清も入っていたと聞いている。
二年の任期を終えて日本に帰ってからも、オレは袖すりあえなかった出会いを繰り返すことになる。その話は次回・・・
オレの友達は殆ど社会に出てから出会った人ばかりだ。年齢も、生まれた所も、仕事も違う、見ず知らずの人との一瞬の出会い。お互いに魅力を感じたら、小さな接点を大事にしてそこから友情を育んでいく、、、それこそが友人と考えている。
人生には出会いが溢れている。生きていれば人は沢山の人と出会える。その出会いを上手く生かせた人が友人に恵まれる。努力なしで友人は生まれない。しかし、オレには折角の出会いがありながら友人になれなかった人達が沢山いる。そんなことを書いてみたい。
今から約40年前、今は亡きオレの親父が創設した青年海外協力隊で、アフリカのタンザニアに二年間派遣された。ある時、ダルエスサラームの協力隊事務所にいたら数人の日本人が飛び込んできた。話を聞いてみると、車上荒らしにあって身ぐるみ剥がされたという。
オレが通訳になって警察に被害届を出したけど、結局犯人は捕まらなかった。オレは気の毒になって新品の下着を全員にプレゼントしたのだが、その中に飛びぬけて男前が一人いた。初代ウルトラマンの黒部進だった。しかしオレはその時ウルトラマンを知らなかった。
もう一人、横田紀一郎という何とも得体の知れない、貧相(失礼)な顔つきの男がいた。後で聞いたら三流週刊誌にヨタ記事を書いて売文稼業をしているという。この時は日本の車のCM撮影に来たと言っていた。事実海岸で車の撮影をした。その時お礼にと言ってオレを助手席に乗せてくれた。あの話が本当だったらオレはCMに映っているはずだが、残念ながら今では調べようがない。だが、いつの間にか彼らは挨拶もなしにオレの前から姿を消した。
世の中不思議なもので、後日オレはウルトラマンのチーフプロデューサー鈴木清さんと仲良くなった。その話をしたら「俺が黒部に言っとくよ」と清さんが言ってくれたが、「もう時効ですから」とオレは笑って話をそらした。
そして横田紀一郎である。パリ・ダカールラリーに日本人として初めて挑戦、二回のクラス優勝を果たし、その後世界中のラリーに参戦している横田紀一郎という男がいる。同一人物か定かではないが、そうであってほしくないとオレは思っている。
やはりアフリカで偶然出会った人に伊谷純一郎さんがいる。ご飯粒が食べたいと言っていたので、「じゃぁ、家に来ますか?」と言ったらそのままついてきた。伊谷さんはオレの手料理を美味しそうに食べてくれた。実はこの人こそ、人類学のノーベル賞と云われる「トーマス・ハックスリー賞」を日本人で初めて受賞した、日本が誇る文化人類学者である。当時彼はチンパンジーやゴリラの生態研究のためにタンザニアに滞在していたのだ。
40年も前の話なのでかなりうろ覚えであるが、確か「日本沈没」という本を書いた小松左京さんや、「沈まぬ太陽」の実在のモデルとなった小倉寛太郎さんにも会ったと思う。小松さんは旅行で来ていたが、小倉さんは日航の左遷に遭いアフリカに赴任していた。
小倉さんは退職してからもアフリカに度々出掛け、アフリカを愛する人達に声を掛けて「サバンナクラブ」という会を作っていた。オレも声を掛けられたのだが、オレは何故か入会しなかった。その理由が今でも思い浮かばない。「サバンナクラブ」にはドリフターズのいかりや長介や、寅さんの渥美清も入っていたと聞いている。
二年の任期を終えて日本に帰ってからも、オレは袖すりあえなかった出会いを繰り返すことになる。その話は次回・・・
2010年02月22日 Posted by 臥游山人 at 18:29 │Comments(0) │交遊録
ラジオ
先日の国際交流会に出演してくれたビックボーイズが、「大空なんだの四方山話」というラジオ番組にゲスト出演してその時のことを話してた。30分過ぎから登場するので、時間のある方は聴いてみて下さいナ。40分頃からオレの話をしているよ。
2月14日放送分です。どうせ大したこと話してないけど・・・
http://pod767.net/category/onair/yomoyama
2月14日放送分です。どうせ大したこと話してないけど・・・
http://pod767.net/category/onair/yomoyama
2010年02月16日 Posted by 臥游山人 at 16:37 │Comments(0) │交遊録
見舞い
東京は雪だった。
細かい鱗片のような雪が風に舞っていた。
義母の病室はナースステーションのまん前にあった。
色々な機械に囲まれたベッドの中で義母は静かに寝息を立てていた。
口には酸素マスク。
カミさんが肩を叩いて目覚めを誘ったが眠りは深かった。
そこに叔父さん夫婦も見舞いに来てくれた。
談話室に移り、挨拶を交わす。
再び病室に戻ったら看護婦さんがベッドを半身起こしていた。
それでも義母はまだ眠りから覚めない。
「オレだよ」と声を掛けてみた。
すると・・・静かに片眼が開いた。
オレを見て・・・かすかに微笑んだ・・・ような気がした・・・・
そしてまた眠りに落ちていった・・・
病院を出たらまだ雪が降っていた。
オレは傘も差さず駅をめがけてズンズン歩いた。
ひとつも寒くなかった。
細かい鱗片のような雪が風に舞っていた。
義母の病室はナースステーションのまん前にあった。
色々な機械に囲まれたベッドの中で義母は静かに寝息を立てていた。
口には酸素マスク。
カミさんが肩を叩いて目覚めを誘ったが眠りは深かった。
そこに叔父さん夫婦も見舞いに来てくれた。
談話室に移り、挨拶を交わす。
再び病室に戻ったら看護婦さんがベッドを半身起こしていた。
それでも義母はまだ眠りから覚めない。
「オレだよ」と声を掛けてみた。
すると・・・静かに片眼が開いた。
オレを見て・・・かすかに微笑んだ・・・ような気がした・・・・
そしてまた眠りに落ちていった・・・
病院を出たらまだ雪が降っていた。
オレは傘も差さず駅をめがけてズンズン歩いた。
ひとつも寒くなかった。
2010年02月13日 Posted by 臥游山人 at 21:45 │Comments(0)
ホントに奇跡が起きるのか?
沢山の静岡市民に参加してもらい、ヤングカレッジ国際交流会が今日無事に終了した。ビックボーイズは前日から清水に乗り込んでくれた。大体の打ち合わせをしてから、オレは二人を末廣鮨に案内した。カウンターの向こうはいつも柔和なタジマ君。そして若旦那のユキマサ君。
んん、、、??親方がいない。又入院でもしてるのでは・・・と不安がよぎるが、ユキマサ君が「親方は今日は用事で東京です」と言いながらてきぱきと指示を飛ばしている。そういえばその声も親方そっくりになってきた。
三点盛りはあん肝、ナマコ、サイマキ海老。痛風の敵だがそんなの関係ネー。ここのところ義母のことが心配で殆ど飲んでなかったが、今日だけは心の中で手を合わせて飲ませてもらうことにした。先ずは生ビールで乾杯だ。ヒラメのお造り、鯛の酒蒸し、トラフグ白子の茶わん蒸し、トロの炙りなどが次から次に目の前に。
ビックボーイズのなべちゃんも羽生君も今日は清水に泊まるので安心して呑める。美味しい肴と楽しい会話でどんどん酒がすすむ。それにしても今日の末廣鮨は客で溢れている。「すごいね」とユキマサ君に言ったら、「先生がお客さんを呼んでくれたんですよ」と、嬉しいことを言ってくれる。そんなところも親方に似てきたな~~。
そのうち親方が東京から帰ってきた。「今日は先生が来るって言うから心配で早く帰ってきたよ」親子してこれだ。商売繁盛するわけだよ。親方がいれば会話が更に弾む。気がつけばオレの顔は真っ赤っか。一体何杯飲んだのだろうか??
握りもたっぷり楽しみ、最後は最高級のクラウンメロンを二つ割りで出してくれた。親方がチラっとこちらに笑顔を返す。あれは親方が商売抜きでサービスする時の顔だ。ありがて~、ありがて~。これにブランディをたっぷりたらし、スプーンで一気にかっこんだ。
ユキマサ君と若女将に見送られ、末廣鮨からふらりふらり歩いてなべちゃんをホテルまで送っていく。何時もなら二次会、、、三次会、、、となるのだが、そんな気にもなれない。なべちゃんに謝ってタクシーで家に戻った。家に近づくにつれ気が重くなっていく・・・
風呂にゆっくりと身を沈めながら、三日前のカミさんからの電話が頭から離れない。「肺炎を起こしているんだって。そろそろ駄目かもしれない・・・」「こっちのことは心配しないでいいから、気をしっかり持ってお母さんを最後まで見てあげるんだよ」オレはそう言いながらも今度こそ駄目だろうな・・・と覚悟を決めた。
今日は朝の10時になべちゃんが車でオレを迎えに来てくれた。国際交流会の会場に着いたら、役員はじめ講師、会員が、沢山集結し、もう準備が始まっていた。みんながそれぞれの分担を一心不乱に取りかかっている。何と逞しくなったことか。これだけでもヤングカレッジを設立した甲斐があるというものだ。嬉しいもんだな~。
交流会は、ビックボーイズが3時間半という長丁場を頑張ってくれて、笑いの絶えない素晴らしいものとなった。どの顔を見ても生き生きとしている。そんな中、ただオレだけが鬱々としていた・・・
交流会が終わってからビックボーイズにも参加してもらい、打ち上げを行った。みんなの満足そうな顔、楽しそうな会話を上の空で聞きながら、オレの心は義母の病室に飛んでいた。心の中で、がんばれ、がんばれ、と呪文のように唱えながら、ひとりひきつり笑いを浮かべているオレ、、、
ここ三日ほどカミさんから電話がない。オレは最悪の事態を想定していた。打ち上げから戻ってもオレの神経は受話器にまとわりつくように敏感になっている。そして電話が鳴った。
オレは思わず「やっぱりだめだったか・・・??」と口に出してしまった。だが、カミさんの声は弾んでいた。「お母さんの意識が戻ったのよ」「エ~エ~~??」オレの驚きを無視するようにカミさんが嬉しそうに喋り続ける。「目も開いてね、私を目で追うんだよ。それに、私が話しかけたらうなづいたのよ!!」
奇跡がホントに起きかかっているのか?まるで夢のような話じゃないか?何回も医者から見放されては命を繋ぎ、今こちら側に戻りつつある義母。命って何て力強いものなのか?
オレはカミさんに、「こうなりゃ徹底的に看病してやれよ。オレは何とか頑張るから当分帰ってこなくていいよ」と叫ぶように言った。こうなりゃ炊事洗濯何でもやってやる。義母がホントに元気になるまでオレも本気で戦ってやる。
義母さん、、、がんばれ!がんばれ!そしてオレ、、、がんばれ!がんばれ!
さあ、今日は呑むぞ。とりあえずビールからいっとくか・・・???
日記も復活できそうだな~~
んん、、、??親方がいない。又入院でもしてるのでは・・・と不安がよぎるが、ユキマサ君が「親方は今日は用事で東京です」と言いながらてきぱきと指示を飛ばしている。そういえばその声も親方そっくりになってきた。
三点盛りはあん肝、ナマコ、サイマキ海老。痛風の敵だがそんなの関係ネー。ここのところ義母のことが心配で殆ど飲んでなかったが、今日だけは心の中で手を合わせて飲ませてもらうことにした。先ずは生ビールで乾杯だ。ヒラメのお造り、鯛の酒蒸し、トラフグ白子の茶わん蒸し、トロの炙りなどが次から次に目の前に。
ビックボーイズのなべちゃんも羽生君も今日は清水に泊まるので安心して呑める。美味しい肴と楽しい会話でどんどん酒がすすむ。それにしても今日の末廣鮨は客で溢れている。「すごいね」とユキマサ君に言ったら、「先生がお客さんを呼んでくれたんですよ」と、嬉しいことを言ってくれる。そんなところも親方に似てきたな~~。
そのうち親方が東京から帰ってきた。「今日は先生が来るって言うから心配で早く帰ってきたよ」親子してこれだ。商売繁盛するわけだよ。親方がいれば会話が更に弾む。気がつけばオレの顔は真っ赤っか。一体何杯飲んだのだろうか??
握りもたっぷり楽しみ、最後は最高級のクラウンメロンを二つ割りで出してくれた。親方がチラっとこちらに笑顔を返す。あれは親方が商売抜きでサービスする時の顔だ。ありがて~、ありがて~。これにブランディをたっぷりたらし、スプーンで一気にかっこんだ。
ユキマサ君と若女将に見送られ、末廣鮨からふらりふらり歩いてなべちゃんをホテルまで送っていく。何時もなら二次会、、、三次会、、、となるのだが、そんな気にもなれない。なべちゃんに謝ってタクシーで家に戻った。家に近づくにつれ気が重くなっていく・・・
風呂にゆっくりと身を沈めながら、三日前のカミさんからの電話が頭から離れない。「肺炎を起こしているんだって。そろそろ駄目かもしれない・・・」「こっちのことは心配しないでいいから、気をしっかり持ってお母さんを最後まで見てあげるんだよ」オレはそう言いながらも今度こそ駄目だろうな・・・と覚悟を決めた。
今日は朝の10時になべちゃんが車でオレを迎えに来てくれた。国際交流会の会場に着いたら、役員はじめ講師、会員が、沢山集結し、もう準備が始まっていた。みんながそれぞれの分担を一心不乱に取りかかっている。何と逞しくなったことか。これだけでもヤングカレッジを設立した甲斐があるというものだ。嬉しいもんだな~。
交流会は、ビックボーイズが3時間半という長丁場を頑張ってくれて、笑いの絶えない素晴らしいものとなった。どの顔を見ても生き生きとしている。そんな中、ただオレだけが鬱々としていた・・・
交流会が終わってからビックボーイズにも参加してもらい、打ち上げを行った。みんなの満足そうな顔、楽しそうな会話を上の空で聞きながら、オレの心は義母の病室に飛んでいた。心の中で、がんばれ、がんばれ、と呪文のように唱えながら、ひとりひきつり笑いを浮かべているオレ、、、
ここ三日ほどカミさんから電話がない。オレは最悪の事態を想定していた。打ち上げから戻ってもオレの神経は受話器にまとわりつくように敏感になっている。そして電話が鳴った。
オレは思わず「やっぱりだめだったか・・・??」と口に出してしまった。だが、カミさんの声は弾んでいた。「お母さんの意識が戻ったのよ」「エ~エ~~??」オレの驚きを無視するようにカミさんが嬉しそうに喋り続ける。「目も開いてね、私を目で追うんだよ。それに、私が話しかけたらうなづいたのよ!!」
奇跡がホントに起きかかっているのか?まるで夢のような話じゃないか?何回も医者から見放されては命を繋ぎ、今こちら側に戻りつつある義母。命って何て力強いものなのか?
オレはカミさんに、「こうなりゃ徹底的に看病してやれよ。オレは何とか頑張るから当分帰ってこなくていいよ」と叫ぶように言った。こうなりゃ炊事洗濯何でもやってやる。義母がホントに元気になるまでオレも本気で戦ってやる。
義母さん、、、がんばれ!がんばれ!そしてオレ、、、がんばれ!がんばれ!
さあ、今日は呑むぞ。とりあえずビールからいっとくか・・・???
日記も復活できそうだな~~