予感

前回の日記で、来月東京に行こうかな?と書いたら、それを見たマジシャンのケン正木さんから、「パーティが終わったら、自分の行きつけの店に行こうよ」とコメントが入った。せっかく上京するのに、うれし師匠に会って中畑の顔を見ただけで帰るのも味気ないなと思っていたので、異論のある筈がない。上野にあるその店は、プロのミュージシャンが経営している店で、生演奏で歌える店だという。ケンさんは唄を歌うのが大好きだ。自分のマジックショーでも「カラオケマジック」と称して、歌いながら軽妙なマジックを披露している。

そんなケンさんがここ数年体調不良で元気がなかった。そこで、ケンさんを元気づけようとオレは下手な詞を創って贈った。それにケンさんが曲を付け、プロに編曲してもらった。「駅」と「絆の唄」の二曲である。それをケンさんは自分のテーマソングのように歌ってくれている。その歌をCDにして送ってもらったけど、まだ生で聞いたことはない。

それをビックボーイズのなべちゃんに話したら、なべちゃんも付き合ってくれるそうだ。なべちゃんと飲んだくれるのも楽しみだな~。そうなると日帰りは出来ないので、今なべちゃんに頼んで安いホテルを探してもらっている。

酒と音楽、、、そしてマジシャンと漫才師、、、これで楽しくならない筈がない。

きっと来年はいい年になるよ、、、今オレの胸にそんな予感が充満し始めている、、、





  


2011年12月27日 Posted by 臥游山人 at 16:46Comments(0)交遊録

思案中

今朝がた、オレが敬愛してやまないうれし師匠から電話があった。青空うれしと聞いても若い世代にはピンと来ないかもしれないが、伝説の番組「ウィークエンダー」を知ってる世代の人ならすぐ思い浮かぶ、漫才界の大御所である。

電話の内容は、「清がサ、就任パーティやるから出ておいでよ」と云うものだった。清とは云わずと知れた中畑清のこと。うれし師匠は根っからの野球好きで、ついこの前まで自分の野球チームを持っていた。中畑とは同じ駒澤大学出身という事もあって、まるで息子のように可愛がっている。師匠は中畑がベイスターズの監督になったことが嬉しくて仕方がないのだ。

オレは特に中畑清との交流はない。でも、うれし師匠が催す会に行くと、大体中畑もいる。会えば会釈を交わす程度だから、就任のパーティにわざわざ静岡から行くほどの義理はない。会場は東京のホテル、開催日は1月17日だそうだ。

うれし師匠も「遠いしさ、急なことだし、無理しなくていいよ」と言ってくれるが、悩んじゃうな~。口じゃそう言っても、少しでも中畑のパーティが盛況になるようにオレなんかにも電話してくるんだからね。それに、久しぶりにうれし師匠の顔も見たいしな~。

師匠も70代半ばを過ぎた。たかだか20年ほどの浅い付き合いだけど「あんたとは一生の付き合いだからね」と言ってくれる。まだまだ口は達者だが、知り合った頃と比べると格段に足腰が弱くなってる。それで去年自分の野球チームを解散した。

会えばきっと「あんたもバカだね~。俺に言われたからってサ、わざわざ静岡からお金と時間を使って来るこたぁねえんだよ」って、目を細めながら憎まれ口たたくんだろうな~。

やっぱり行こうかな?




  


2011年12月25日 Posted by 臥游山人 at 14:02Comments(0)交遊録

ハンドルネームを変えた訳

先般ハンドルネームを「快傑ガンコ親父」から単なる「がんこ」に変えた。他人から見れば他愛ないことでも、オレには感慨深いものがある。


7年前に義憤に駆られてある団体を設立した。翌年にNPO法人として認定された。正式名称を「NPO法人ヤングカレッジ」という。この団体の目的は勤労青少年の生涯学習と健全交流を図ることにある。


今は何とか軌道に乗って来たが、設立当初は試行錯誤の連続で大変だった。役員編成、活動資金調達、講座運営、事業企画、、、数え上げたらきりがない。


若者を中心に役員を構成したが、当然ながら彼らには経験も、人脈も、そして金銭的にも時間的にも余裕がない。その反面、過剰な自意識がある。一番厄介だったのは、楽しいことにはついてくるが、ちょっと辛いことが見えてくるとサっといなくなる。そして何をやっても長続きがしない。


そこでオレは嫌われることを覚悟で「ガンコ親父」を買って出た。逃げていく者は仕方がない。その代わり、ついてきてくれる若者にはオレの英知を尽くして、地域のリーダーとなれるよう徹底的にしごいていくことにした。


「ヤングカレッジ」の理事長はオレの陶芸の女弟子に託した。例え女であっても容赦はしなかった。オレに怒られてどれだけ泣いただろうか。泣いても泣いても突き放した。他の役員にも同様だった。駄目なものは駄目、心を鬼にしてガンコ親父に徹してやろうと心に決めた。これがオレのハンドルネームの由来であった。


しかし、そうは云っても彼らに社会の荒波をまともに被らせるわけにはいかなかった。団体を運営していれば様々な軋轢が生じてくる。その相手が大きければ若者にはひとたまりもない。そんな時はオレが先頭に立った。社会のために一生懸命奉仕している若者を傷つけてはいけないと思ったからだ。


「もうこんな団体解散しようか?」と思うこともあった。食事も喉を通らない時もあった。正直逃げたいと思った。でも、頑張っている若者を見ると「ヨシ!もうひと踏ん張りしてみよう!」と勇気が湧いてきた。そんな時、「あっ、オレも若者と一緒に成長してるんだ」と気付いた。


「役員には、やれるだけやらせてみよう。そして、どうしても解決できないことがあれば、オレがあらゆる知恵を振り絞って解決してやろう」そう覚悟を決めた。そこで「ガンコ親父」に快傑を加え「快傑ガンコ親父」としたのである。オレの決意のシグナルだった。



ところが最近様子が変わって来た。あんなに泣いた理事長が全く泣かなくなり、それどころか堂々としてきた。設立当初玉石混交だった役員も、今は能力も意欲もある役員が集まってきた。つまりオレの出番が殆どなくなって来たのである。自分たちで事業を企画して見事にやり遂げるようになってきた。寂しいような、嬉しいような、何とも複雑な気持ちだが、この辺がオレの引き時かな?と思えるようになってきた。それでハンドルネームを平仮名の「がんこ」に変えたのである。


オレの郷土、山形県米沢地方に「そんぴんつり」という言葉がある。これは「そん」は「損」で「ぴん」は「貧」と云われて、損しても貧しても自分を曲げないという意味らしい。オレは子供の時から母親に「お前のようなそんぴんつりは見たことない。亡くなったじいさんそっくりだ」と云われ続けてきた。じいさんは村でも有名なそんぴんつりだった。


だからオレのガンコは一生治らないだろう。でも、せめて他人には優しいガンコ者になろうと思う。もうこんな年になったのだから、敢えて嫌われ者になることもないだろう。今年もわずかで終わる。来年は人から愛される優しい「がんこ」になりたいな~。




  


2011年12月24日 Posted by 臥游山人 at 20:57Comments(0)日々雑感

チェコ紀行2011 <10月12・13日>

3:00 起床
4:30 ペンション出発。

弟が、プラハの通勤ラッシュに巻き込まれると大変だから早いほうがいいよ、と言うので、かなり早朝の出発になった。お陰で車はスイスイとプラハ市内を抜け、6:10にはルーズニェ飛行場に到着することが出来た。



早朝のせいか人もまばらだった。弟に帰ってもいいよと言ったが、チェックインするまで付き合ってくれるという。



8:10 定刻どおりチェックイン開始。弟に別れを告げて無事手続きを済ませる。



搭乗時間まで待合室でゆっくりする。



チューリッヒまでこの飛行機に乗るようだ。



搭乗が始まったが、飛行機は30分遅れで出発した。



飛行機は満席だった。中に日本人のツアー客も結構いた。



チューリッヒ到着。



到着が30分遅れたので、出国手続きや身体検査など大忙しであった。



搭乗ゲートに移動する。



13:00 チューリッヒ離陸。眼下にアルプスの山並みが見える。



雄大な景色が続く。しかし、このあとプラハ上空を飛んで成田に向かうので、チェコ→スイスの飛行がその分無駄な時間のように思えてならない。次回は無駄のない飛行コースを選びたいな。

【10月13日】



07:45 成田到着。

こうして35日間に亘るチェコ紀行が終了した。写真を中心にしたので皮相的な紀行文になってしまったが、今回の旅行を終えて、改めてチェコ民族の奥深さを思い知った。

古くはマジャール人により壊滅的な打撃を受け、30年戦争に於いてはチェコ中の町や村が焼け野原になった。そしてハプスブルク帝国に言葉や文化を封印され、近年にはロシアによって国中を蹂躙された。

それでもチェコ民族は武力を用いずに、その英知と、驚くほどの粘り強さを持って「ビロード革命」に勝利した。又、EU加盟の際も、ユーロを用いずに自国貨幣にこだわった。その結果、この度のユーロ危機にもさして動揺しないで凌いでいる。

オレはこの旅を通じ、チェコ民族に対し尊敬に近い念と親近感を強く覚えた。きっと又近いうちにチェコを訪れることになるだろう。その時は、更にディープなチェコに迫りたいと思っている。

長々とお読みいただいた皆さん、本当にありがとうございました。

                        <完>




  


2011年12月21日 Posted by 臥游山人 at 16:04Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月10・11日>

【10月10日】
7:30 起床
8:30 朝食

昨日寒い中で釣りをしていたせいか、朝から風邪気味で体調が思わしくない。今日は一日予定をいれずに、買い物をしたりしながらゆっくりと過ごす。

【10月11日】
7:00 起床
8:00 朝食
9:00 弟が迎えに来た。

今日はキノコ狩りをすることになっている。昨日はゆっくり休めたので体調は万全だ。「運がよければポルチーニが生えているかも知れない」と弟が言うので、ウキウキとしながら森に向かった。



森は弟の家から歩いて5分とかからない。森に入ると、ベニテングタケがあちらこちらで顔を出していた。このキノコは毒キノコだ。



取れるときはかごに入りきれないほど取れるそうだが、残念ながら今日は一本も生えてなかった。ポルチーニをあきらめて他のキノコが生えているところに向かう。



途中に猪の水浴び場があった。勿論野生の猪だ。



やっとキノコが取れだした。これはチェコでは一級品のキノコだという。



又発見。



なんとなく食べれそうなキノコだが、用心してパスする。



これもパス。



森を抜け、次の森に向かう。



弟の家の周りには、こんな森がいくつもある。

結構採れたので家に帰ることにする。



弟が先週から飼い出した「メインクーン」という品種の子猫。



アメリカのニューイングランド地方のメイン州が原産の猫で、その起源は諸説あるようだ。その中でも興味のあるのは、かのマリー・アントワネットがアメリカに亡命を企てるが実現せず、彼女が可愛がっていた猫を形見に連れてきたと言われているものだ。まあ、これは眉唾ものだろう。



この猫は、別名「ジェントルジャイアント」と呼ばれている。それは、知能が高く優しい猫だが、時として雄は10キロを越える大型猫になるからだ。 この子は雌だが、それでも5キロくらいになるらしい。



今日の収穫の一部。



料理前のキノコ。

これを弟の嫁さんのブラスタが料理をしてくれた。ただ炒めて卵とじにするだけの料理だが、それが美味いのだ。ご飯を炊いてくれたので、キノコの卵とじ丼にして食べた。満腹、満腹、、、



猫も眠そうだ。いよいよ明日は日本に帰る。出発が早いので、これで今日はペンションに帰ることにする。ブラスタにお礼を言い、再会を約束して弟の車に乗り込んだ。





  


2011年12月20日 Posted by 臥游山人 at 23:01Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月9日>

7:00 起床
7:50 朝食
8:30 弟がペンションまで迎えに来てくれた。

今日は弟が釣りに行くので連れて行ってもらうことにした。



場所はオプトニッツェの焼却場のすぐ近くにある池。ここの三本の煙突はかなり遠くからでも見ることが出来る。

狙うのは鯉。チェコの人は鯉が大好きだ。特にクリスマスの時期は殆どの家庭で鯉料理を楽しむ。



撒き餌の準備中。これをパチンコを使って狙う場所まで飛ばす。



仕掛け投入。餌はトウモロコシである。



チェコで釣りをする場合、会費を払ってライセンスを取る。決まりも細かくて、竿の本数、角度まで決められている。又、持ち帰ってもいい魚の数や重量も決められており、釣った場合はそれを報告しなければならない。



オルダが遅れて到着。手製の舟に乗って撒き餌をしに行く。



弟が魚群探知機のソナーを水中に入れて、魚影や池の深さを調べている。この魚探はオレがお土産で日本から持ってきたものだ。



これで魚のいる場所を探し、そこに集中的に撒き餌を投下する。



いよいよオルダも仕掛けを投入する。



行儀よく竿が並ぶ。



リールは日本のダイワ社製。なかなか高価らしく、釣りはゆとりのある人達の楽しみだという。



この日は寒さが厳しく、二人とも全く釣れなかったが、最後にこんな小さな魚が針に掛かっていた。

後日、オルダは魚探をフルに活用しかなりの釣果を上げたようだ。



ハラデツに戻る。夕日が美しかった。







旅も終盤だが、いつも思うのは、丁度一ヶ月あたりで日本が恋しくなる。こんな夕焼けを見ると尚更望郷の念が強くなってくる。



夕食は弟の家族と、郊外の「Duran」というレストランに出かけた。





  


2011年12月19日 Posted by 臥游山人 at 21:51Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月7・8日>


【10月7日】
7:30 起床
8:30 朝食

この日は一日ハラデツ市内で買い物をして過ごす。










【10月8日】
7:30 起床
8:30 朝食

今日の午前中は、フラデツ郊外にある「テスコ」で買い物をする。

その後、弟の家族と一緒にオプトビツェのオルダの家に行く。オルダは弟の親友で、6年前には豚の丸焼きをして歓迎してくれた。今回は子羊の丸焼きをご馳走してくれると言う。



もう既に羊の肉は銀紙に包まれた状態でクルクル周っていた。



食事前にこんな甘いものが運ばれてきた。



銀紙を剥がす。



中身はこんな状態。



いよいよタレを塗り始める。



再びクルクルまわし始める。この作業を何回も繰り返す。



右側の渋い顔をしたオッサンが見かけに似合わずなかなかのエンターテナーで、焼き上がりを待ってる間にみんなを爆笑させてくれた。



こんないい色に焼きあがった。



焼き色のついた部分だけを削ぎ取る。そこから大宴会がスタートした。今日はオルダの親戚も沢山集まってくれた。



削ぎとられた羊の肉。豚肉よりあっさりしていて実に上品な味だった。



オルダの倅が運んできたのは、「スリヴォビッツェ」を飲むための小さなコップ。「スリヴォビッツェ」というのは杏から作った蒸留酒で、度数が大変高い。これをビールを飲みながらも、途中で何回も飲み干すのだ。



わざわざ「ブルノ」から駆けつけた親戚のミュージシャンが乾杯の音頭を取る。



チェコの音楽ばかりで歌詞もわからなかったが、パーティを盛り上げてくれた。



外は大分冷えてきたが、赤々と燃える暖炉とアルコールの酔いが体をポカポカと温めてくれる。



そして、この肉を食べ尽くすまでパーティは続くのだった、、、、、






  


2011年12月16日 Posted by 臥游山人 at 21:35Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月6日> ②


過去に何回もこの街に来てるはずなのに、城を訪れるのは初めてだ。近年改修されたようで、外壁にズグラフィート壁画が施されている。



この門から中庭に入る。



中庭風景。
この城は1880年より博物館として利用されているようだ。二人分180Kcを払って建物の中に入る。3階部分が開放されているようで、中にチェコのガラスや硬貨などが陳列してあった。又、ラベ川沿いに生息する動物や鳥などの剥製もあった。



城内見学を終え、城の周りを歩いてみた。















城を出て再び広場の方に向かう。



ペルンシュティン広場。この街にはペルンシュティンという名前の地ビールがある。



緑の門を出ると、右側に「聖バーソロミュー教会」が見える。この教会は1295年に創られた。



商店街を歩いてパルドビツェ駅に戻り、鈍行に乗ってハラデツに帰る。
14:25 出発
14:55 ハラデツ到着。



夕食まで散歩に出る。旧市街ヴェルケー広場。



前回来た時、この塔にも登ったな~。



広場を出て、旧市街の外周を歩いてみることにした。



アイスホッケーのアリーナ。
アイスホッケーはチェコで最も人気のあるスポーツだ。主だった街にはプロのチームがあり、フラデツのチームも強豪として知られる。今日は試合のある日だったみたいで、駐車場が満杯だった。



旧市街の周りにはこんな城壁が残っている。これを見ても昔は大きな城があったことが推測される。



公園にあった石像。



ここを撮ったところでバッテリーが切れた。さあ、ペンションに帰って夕食にしようか?





  


2011年12月14日 Posted by 臥游山人 at 22:07Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月6日> ①

8:00 起床
9:00 朝食

今日はカミさんと一緒に、ハラデツの南方向20km程のところにあるパルドビツェ<Pardubice>に行く。この町はラベ川の両岸に発達した古い町である。プラハからオーストリアやハンガリーなどに続く鉄道の通過駅になっており、今ではハラデツを凌ぐ商業都市となっている。

日本の「パナソニック」の大きな工場もあるし、「Foxcom」のようなIT関連の工場もある。又、「Semtex」というプラスチック爆弾もこの町で生産されている。

工業だけではなく、スポーツや文化も盛んで、アイスホッケーでは世界的に有名な選手を数多く輩出しているし、年一回10月に行われる「パルドビツ・スティプルチェイス」と呼ばれる競馬の大障害レースは世界的にも有名である。

ヨーロッパ最大のチェストーナメントもこの町で行われ、世界中から1,200人もの選手が参集するという。



10:42 出発 往復二人 100Kc



11:02 パルドビツェ到着。駅を右折して旧市街に向かう。



道路が広々としていて気持ちがいい。



向こうに見える塔をくぐれば旧市街だ。商店が沢山あって人通りも賑やかだ。



緑の門<Zelena Brana> 



門をくぐる。



ペルンシュティン広場。この建物は市役所らしい。



広場に面した建物が大変美しい。






広場にはオープンエアーのレストランが何軒もある。



城に向かう通り。この通りにはアンティークや画廊など、興味のある店が一杯あった。今度行く時はじっくり覗いて周りたいと思った。



ここから城域になるのだろうか?


城の正門をくぐる。



門の裏側にあったレリーフ。



この城は13世紀に建てられたが、15~16世紀頃に現在のルネッサンス様式に改装された。



城の前庭に白い孔雀が何匹もいて、餌を求めて近づいてくる。持っていたパンを与えたりしながら、暫し孔雀と戯れる。




  


2011年12月13日 Posted by 臥游山人 at 22:43Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月5日>

7:00 起床
8:00 朝食

今日も一人で汽車に乗ってベネショフ<Benesov>という町まで出かける。どうもカミさんは帰国モードに入ったのか、一人ハラデツに残ってお土産のお菓子などを買い捲っているようだ。

ベネショフはプラハから南44kmのところに位置し、この町の外れに13世紀後半に建築されたコノピシュチェ<Konopiste>城がある。この城の最後の城主は、オーストリアのフランツ・フェルディナント皇太子であるが、彼は1914年にサラエヴォで暗殺され、これがきっかけで第一次世界大戦が勃発した。

9:00 ホテル出発。



10:08 5分遅れでハラデツ出発。往復一人395Kc

11:47 プラハ到着。チェスケー・ブディヨビッツェ行きの列車に乗り換える。
12:16 プラハ発。



12:57 ベネショフ到着。さあ、これからは日本から持ってきた地図だけが頼りだ。駅を出たら左方向に歩き、高架が見えたらそれを渡る。



高架から駅方向を望む。



高架を渡ったら、後は道なりに歩くだけだ。



そして、だ~れもいなくなった。ただただ自分を信じて歩いていくだけだ。



30分も歩いたら、右側に大きな駐車場が見えた。そこで左折し、森の方に歩いていくと古そうなレストランがあった。



道路際にあった水のみ場。



道路を更に左折すると石像が見えてきた。



森の中に美しい建物が見えてきた。



この建物がコノピシュチ城である。



城に入る正門。



正門をくぐり中に入っていくと、ブロンズの彫刻があった。



更に門をくぐり城の中庭に入る。



中庭風景。



やっぱりここにも井戸があった。



中庭の壁にあったレリーフ。



今度は外庭を散策する。見事な石造があった。







城壁に見事なレリーフが沢山飾られていた。





城内見学ツアーに申し込む。英語のツアーだった。フランツ・フェルディナントが集めた銃などのコレクションと、狩りでしとめた獲物の剥製や角が所狭しと陳列してあった。特に銃など武器のコレクションが素晴らしい。武器というより、象牙などをふんだんに使った美術品であった。



ツアーを終え城を後にする。



この人工池の向こうから城を撮影すると、水に映った城が美しいと言われているが、疲れているのでパス。



又この道を歩いて帰る。



ベネショフ駅到着。
15:58 出発。



16:40 プラハ着。
17:09 6番ホームから出発。



18:51 ハラデツ到着。

さあ、ペンションまでもうすぐだ、、、




  


2011年12月12日 Posted by 臥游山人 at 21:59Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月4日> ③


ここをクリックしてヨゼホフとクークスのパノラマを見てください。クークスは下の方にスクロールすると見られます。写真の左上を操作すると360度回転できます。



クークスの見学を終えて駐車場に戻り、車の中で弟が握ってきてくれたおにぎりを食べた。鮭と梅干のおにぎり、、、それに味噌漬け、、、こんな美味いおにぎりを久しぶりに食べた。

さあ、次はチェスキー・ラーイ<Cesky Raj>に出発する。ハラデツから北西になるが、イチーン<Jicin>という町から目と鼻の先になる。チェスキー・ラーイとは、チェコ語で「チェコの天国」という意味なのだ。

ここで弟が勘違いをしてイチーンを通り越して<Sobotka>の方まで行ってしまった。確かにこの辺一帯が「チェスキー・ラーイ国立公園」に指定されているらしいが、オレの行きたいところは、その登り口で珍岩奇岩のあるところだった。「ついでだから国定公園の中を帰ろうか」ということで山村地帯を通って帰ることにした。



森林に囲まれた丘陵地帯を抜けたところでUFOを発見!! これはHumprecht城と云って狩猟用に建てられた城だそうだ。



道に迷いながら、やっと登り口にたどり着けた。普通はここで入山料を払うらしいが、誰もいないのでそのまま通過する。



5分も登ると岩山が見えてきた。



岩山の間から素晴らしい眺望が望める。



向こうの山頂に見えるのは<Trosky>という砦跡。残念ながら今回は行けなかったが、次回は必ず行きたいところである。



岩の間を通り抜けることが出来る。







チェスキー・ラーイ地域は玄武岩から成っており、鉄器時代にはケルト民族が、6世紀にはスラブ民族が住んでいた。中世に入り、岩山に城が築かれ始めた。15~16世紀には、その景勝から避暑地や狩猟地となり、ルネッサンス様式の狩猟の為の城が数多く建築された。



ここでロッククライミングをやってる若者達がいた。




帰りにイチーンの町を見学することにした。イチーンは12世紀に造られた由緒のある古い町である。



ヴァルデチカ門







ヴァルドシュテイン広場







門をくぐってみる。







暫く町を散策し、美味しそうなアイスクリームを広場で食べてから、ハラデツへの帰途に就いた。









  


2011年12月09日 Posted by 臥游山人 at 22:34Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月4日> ②

午前中に行ったヤロミエジ・ヨゼホフから、更に北へ行ったところにクークス<Kuks>という小さな村がある。



道路脇に駐車場を見つけてそこに車を置き、田舎道を降りていくと、民家の間に細い石段があった。



そこを降りきると突然視界が開いた。ラベ川の対岸の小高い丘の上に、お城のような建物が見えた。クークスと呼ばれる昔の複合施設跡である。

この地で温泉が湧き出し、その温泉を利用したスパ施設が造られたのは1692年頃だといわれる。1722年頃にスパを拡大して、教会、病院、劇場が造られた。競馬場もあったという。

オレはいきなり現れた光景に一瞬息を飲んだ。



ラベ川に架かる橋の前に、左右に見事な彫刻のある石段がある。



当時はそれぞれの彫刻からワインを流していたとも言われる。



正面の建物が「聖トリニティ教会」



テラスには夥しいバロック様式の彫刻が立ち並んでいる。



この彫刻群は、マティアス・バーナード・ブラウンという彫刻家とその弟子達が、わずか数年の間に作り上げたものと云われる。



キリスト教の故事に習い、12体の美徳、12体の悪徳など、敷地内にとどまらず、近辺地域にも彫刻があるらしい。















裏の庭園の方に回ると、そこにも彫刻があった。



庭園の中心にひと際大きな彫刻があった。



キリスト教の戦士の像。







中庭の彫刻。



一回りして正面に出る。



その後、洪水や火災の被害に遭いながらも、退役軍人や高齢者の保養地として使われていたらしい。



教会は現在チェコの薬局博物館になっている。



流れて来るワインを浴びながら、ここでゆっくり日光浴でもしたかったな~。

さぁ、次は「チェコの天国」に向けて出発だ!!





  


2011年12月06日 Posted by 臥游山人 at 21:26Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月4日> ①

8:00 起床。
9:00 朝食。

今日は又、弟が車で近辺の町を案内してくれるという。カミさんは三日間に及ぶ車の旅で疲れたらしく、今日は買い物を兼ねてハラデツでのんびりしたいらしい。

10:00 出発。



ハラデツから北に向かったところにヤロミエジ<Jaromer>という町がある。その町に隣接したヨゼホフ<Josefov>という小さな要塞の町があるので、最初にそこを訪ねてみることにした。

この町は、1780年頃から、プロイセンの侵攻に備えて築かれた要塞の町だ。その当時のオーストリア・ハンガリー皇帝、ヨーゼフ二世によって築かれたのがこの町の名前の由来のようである。ヨーゼフ二世はマリア・テレジアの長男である。



上の写真で見る通り、この町は幾何学模様で、不定形の星型に堀と城砦が築かれており、大変美しい形をしている。



水のない堀の中を歩いてみる。



この町には60キロに及ぶ地下道があり、その一部が見学できるのだが、今日は平日なので案内所には誰もいない。



当時は満々と水が張られていたに違いない。



広場の方に歩いていったら、綺麗な教会があった。「聖母被昇天教会」というそうだ。



将校や兵士が住んでいた建物が並ぶ。



軍人の町だったので、素朴で頑健な建物が多い。



町の片隅に建っていたヨーゼフ二世の像。



これも兵舎だったのだろう。

地下道の見学が出来なかったのが残念だったが、今度はヨゼホフからオポチノ<Opocno>という町に向かった。



オポチノ到着。バスターミナル。



お城の方に向かう。



城の外観。



城の中庭に入ってみた。ここも平日なので見学できないようだ。観光客が一人もいない。まさに独り占め状態。



バロック様式で、バルコニーの美しい城である。



中庭の芝生の上にあった鹿の石像。



馬車が飾ってあった。

この城はその所有権を巡って、チェコ政府と旧所有者のクリスティーナ・Collred・マンスフェルト家が度々訴訟合戦を繰り返し、現在はマンスフェルト家に所有権が移ったようだ。



ここも内部を見学できなかったので、仕方なく次の場所に向かうことに、、、



弟が、「じゃぁ、今度はクークス<Kuks>に行こうか?」と言う。なんでもそこは屋外に彫刻が一杯並んでいるのだそうだ。楽しみだな~。





  


2011年12月05日 Posted by 臥游山人 at 22:19Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月3日>

7:00 起床
8:00 朝食



二日間お世話になったマリカおばさん。この笑顔を見て判るように、気さくでやさしい人だった。又遊びに来たいな~。
8:50 ペンション出発。帰りはスロバキアのニトラ<Nitra>を経由して帰ることにした。



白馬の里らしく、あちらこちらで白馬が見られた。



ドナウ川を渡り、コマルノ<Komarno>に入る。



弟が、ニトラを通過したらタトラ山地を走ってブルノまで行こうか?」と言ってくれたが、どうも道路が曲がりくねっているらしい。車酔いが怖いので、そのまま平地を走り、ブラチスラヴァ<Bratislava>に向かってもらうことにする。



道路の横は収穫の終えた褐色の畑が延々と続く。



ブラチスラヴァ通過。ブラチスラヴァはスロバキアの首都であるが、ハンガリー、オーストリアの二国と国境を接している。ウィーンもすぐ近い。



ドナウ川を見下ろす高台にブラチスラヴァ城がある。かつてマリア・テレジアが居城にしていた城である。



ブラチスラヴァの町並み。

ブルノのIKEAで昼食をとりながら弟が、「前に兄貴が言ってたお城に寄って行こうか?」と言い出した。そう言えば、ブルノからパルドビッツェに向かう列車の中から見たお城の話を覚えていてくれたようだ。

レトビツェ<letovice>という町にそのお城はあったのだが、わざわざその町を通ってくれるという。



ところが、である。その城を探してたどり着いたら、城の門が閉まっていた。近所の人に聞いたら、昨日までは入れたが、今日は修理のために締めているという。

まあ、こんなこともある。あきらめて帰ろうとしたら、一人の観光客らしき人に英語で声を掛けられた。彼もわざわざオーストリアから車でここを訪ねてきたようだ。「残念だね」などと話をしていたら、「日本人か?」と聞いてきた。「そう」と答えたら、「私は五年ほど日本の神戸に住んでいた」と懐かしそうに話し出した。少し話して別れたが、旅というのはこんな出会いがあるから面白い。



城の全景。



レトヴィツエ村。



城の正門。



レトヴィツエ村の教会。



車はフリーウェイを走らずに、色々な町を通りながらハラデツを目指す。



<Svitavy>→<Litomysl>→<Vysoke myto>→


ハラデツに着いた時、陽は暮れ始めていた。



広場の中心にある、ペスト記念碑。



夕食を一緒に食べて弟は帰っていった。柔らかな橙色の街灯が広場を暖かく照らしていて、そこには確実に秋の気配が漂っていた、、、




  


2011年12月04日 Posted by 臥游山人 at 21:38Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月2日>

7:00 起床
8:00 朝食

今日は弟がブタペストに連れて行ってくれるという。ブタペストまではフリーウェイで一本道なので、時間もそんなにかからないそうだ。

10:00 ペンションを出発。



道路はどういう訳か、チェコよりは遥かに整備されている。



ブタペスト到着。市内に入ったら渋滞がひどくて前に進まない。この日はブタペスト・マラソンの日で、何万人のランナーが町の中を走っていた。



Uターンをしてドナウを越えることにしたが、どちらがブタかペストか判らない。



ドナウ川に架かる橋を渡る。



滝のようになっているモニュメントがあった。この先を登って行ったらいつの間にか丘の上に着いた。そこは「ゲッレールトの丘」と呼ばれるところで、たくさんの観光客でごった返していた。やっと車を駐車してから入場券を払い、丘の一番高い「ツイタデッラ要塞」まで行ってみた。



なんとそこにはホテルまであった。このホテルから見る夜景は世界一といえるのではないだろうか?



丘の頂上に建つ「自由の女神像」



この丘は、1800年半ばにハプスブルク家により要塞として造られたそうだ。



360度市内を見渡せるので、要塞として最適の場所だったに違いない。



その後ドイツ軍によって占拠され、その当時の様子が人形で再現されている。







丘を降りて、再び橋を越え市内に入る。



ホテルの駐車場を見つけ、歩いて市内を見学する。



石造りの壮大な建物に圧倒される。







このバスに乗って市内観光しようとしたが、2時間半も乗るということなのであきらめた。















蚤の市があった。







ハンガリー名物の「ハラスレ」というスープ。これは日本で言えば鯉こくのようなもので、鯉の身をパプリカと唐辛子で煮込んだものだった。なかなか乙な味だった。







そろそろ帰路に着くことにした。



平らな道が続く。当時はマジャルの騎馬兵がハンガリー平原を疾走していたのだろう。



バボルナ村の日本人鑑別士Mさんの邸宅。Mさんはハンガリー女性と結婚し、三人の子供をもうけた。子供たちも独立し、今は奥さんと二人で暮らしている。ご夫妻に、ワインや手作りのケーキなどをご馳走して貰った。



ペンションに戻ったら、マリカおばさんがランゴーシュとハンガリ・グヤーシュを作って待っていてくれた。



グヤーシュはチェコでも食べたが、チェコのものとは違い、あっさりとしたスープ仕立てで大変美味かった。




  


2011年12月02日 Posted by 臥游山人 at 22:07Comments(0)旅行記

チェコ紀行2011 <10月1日>

7:00 起床
7:50 朝食

9時前に弟がペンションまで車で迎えに来てくれた。そのまま一旦弟の家に寄り、ブラスタに洗濯物を預けてから、9:30 ハンガリーに向け車で出発する。



名も知らぬ小さな村にもこんな文化遺産が残っている。



村には必ず教会がある。



森の向こうにも尖塔が見える。



弟はもう何百回となくこの道を通っているんだろうな?



ブルノ付近のガススタンドで軽食を摂る。素朴なソーセージが美味かった。



スロバキアとの国境。



いよいよハンガリーに。スロバキア側の旧検問所。



ハンガリー側の旧検問所。



漸く目的地のバボルナ<Babolna>村に到着。ここバボルナ村はハンガリーは勿論、ヨーロッパでも有数の養鶏施設があることで知られている。「テトラ」という品種がここから産出された。

オレの弟は雛鑑別士としてもう35年もチェコに住んでいる。といっても仕事はヨーロッパ全土に及ぶ。ここバボルナでも長期滞在して仕事をしていた時期があるらしい。今回はいつも弟が来ると泊まっているペンションがあるので、そこを利用することにした。



バボルナには現在7人の日本人雛鑑別士が住んでいる。その中の一人Mさんと一緒に夕食をとることにしたのだが、それまで時間があるので村の公園を散歩する。この村は昔から裕福らしく、村自体もしっかり区画が割られ清潔に保たれている。この公園も相当広く、中に動物などが飼われていた。



この辺は村の中心地で、公的建物が並んでいる。







実はこの村は、鶏よりも馬で世界的に有名な村だった。純粋種のアラブレッドを育成し、その中でも白馬の里として、馬好きには垂涎の地らしい。日本も例外ではない。昭和天皇の愛馬「白雪」も、美智子妃殿下が結婚式の際乗られた馬車を引いていた白馬も、ここバボルナから運ばれたものだという。



Mさんと約束したレストランに向かう途中にあった教会。



さあ、待ちに待った夕食が始まった。これは弟がどうしても飲め、と強く勧めたスープ。飲んでみたら肉団子のような具の入った上品な薄味のスープだった。余りにも美味かったので、「これ何のスープ?」って聞いたら、弟がニヤリとしながら「鶏の睾丸のスープだよ」とあっさり言った。



これも不思議な料理だった。フォアグラとマッシュポテトを混ぜたものの上に、たっぷりとオニオンフライをのせたもの。



牛肉を長時間煮込んだ料理。



ニジマスのグリル。



川スズキのソテー。



最後に出たこのデザートこそ、本場ハンガリーの胡桃入り「パラチンキ」だった。チェコのパラチンキより量も少なめで、甘さも押さえてあり大変美味かった。

ハンガリー料理は、全体に塩分も抑えてあり、チェコ料理より食べやすかった。スラブより、モンゴロイドの混ざったマジャルの味が日本人に合うのだろうか?





  


2011年12月01日 Posted by 臥游山人 at 16:25Comments(0)旅行記