今日は一日死んでた

いやはや面目ない、、、って言うのか、それともみっともないと言うべきか、今日は一日死んでいた・・・

25日に還暦を迎えたというのに、その翌日に朝まで飲んでしまった。その結果が見事な・・・完璧な・・・いやいや無様な二日酔いでござんした。日課の散歩も今日は休み、ひたすらゴロゴロしていた。

さがみ三太師匠と飲み始めたのが昨夜の七時半過ぎだった。一応12時前にホテルに送って行ったのだが、師匠がもう一寸サシで飲みたいと言い出した。この期に及んで敵前逃亡は許されない。受けてたったのが間違いだった。もう60なんだからよせばいいのに・・・この辺がまだまだオレの人間としての甘さだね。

近くのショットバーで、師匠に勧められるままに赤ワインを飲んじゃった。それもたっぷり・・・師匠と話していると話題が尽きないし、面白い。だからついつい飲んじゃう・・・いや、これいい訳じゃなくて・・・

家に辿りついたのは三時頃だった。静かに家に入り、戸締りし、ちゃんと風呂に入ってから寝た・・・ようだ。このあたりがオレの律儀さを物語っているね。

そして、、、朝、、、気持ち悪くてなかなか起きられない。アルコールが体中に滲みこんだように手足が重い。頭はもっと重い。まだ酒の臭いがプンプンしてる。正真正銘の二日酔いだ。

こうなりゃ何もしないのが一番!!師匠はどうしてるかな~~と気にはなったが、他人の心配してる場合じゃな~い。ひたすら水分を取り、横になっては目をつぶる。目を開けてるとグルグル回りそうだ。

やっと夕方、体が楽になってきた。もう深酒は慎もう、、、なんてウジウジ反省してたら師匠から電話があった。なんと師匠、朝から修善寺に行ってたんだと・・・そして、「今、三島にいるけど、これから新幹線で東京に帰るよ。じゃぁ、又ね」だと・・・

あのオッサンすげ~~よ。オレより十歳も上なんだよ。一体どっから来るんだろう、あの元気は??腹なんかオレよりポッコリ出てるんだけどな~~。確実に師匠はオレより長生きするな。

まだオレは半分死んでる・・・どれ、今日は早く寝るか・・・



  


2009年05月27日 Posted by 臥游山人 at 20:59Comments(0)交遊録

じゃすかん

昨日までアラカンだったが、今日からはジャスカンになる。そう、今日はオレの60回目の誕生日になるんだ。いや~~早かったな~~・・・30代なんかつい昨日のことのようだ。

月曜日は陶芸クラブの定休日なので、今日はいつもよりゆっくり起きた。新聞に目を通してからいつもの散歩に出かける。5月の薫風が心地よく身体を通り過ぎていく。帰ってきてメザシ、厚揚げ、山椒の実の味噌漬けで軽く一膳食べてからパソコンに向った。見たらお祝いのメールが沢山入ってたので、御礼の返信を済ませてから久しぶりにロクロに座った。

はじめ土が手に馴染まなかったが、数を作るうちに少しずつ土がいうことをききだした。熱中していくと、ラジオの音が全く耳に入らなくなってくるときがある。時間も早送りになる。昔はこうしてただただ何時間もロクロを挽いたものだ。

早く戻ろう・・・と思う。オレの志した道に早く戻りたい。一体オレにどれだけの時間が残されているんだろう?と思う。毎日こうして愚直にロクロに座っていたい。自分の中に少しはあるかも知れない才能のかけらを搾り出してみたい。

オレは56歳でこの世とおさらばするつもりだった。オレの中に、ある確信があった。だからオレは53歳頃から身辺の整理を始めた。色々なものを捨てて身軽になってその時を静かに待とうと思っていた。

それが思いがけなくNPOを設立することになり、身辺が賑やかになっていった。オレは残された時間を世の中のために遣うのもいいだろうと思った。何もないところからNPO法人を立ち上げ運営をしていくのは大変だった。それでも周囲の人に助けられながら無我夢中でやってきて、何とか軌道に乗せることが出来た。

そして今日ジャスカンを迎えた。もう4年も長生きしたことになる。冗談だろうが、カミさんから「嘘つき」と言われている。イヤ、本音かも知れないね。何とも気恥ずかしい話だけど、生きちゃったんだからしょうがない。

だからこれからは余生と思い、生かされるままに生きようと思っている。NPO法人も若者に任せて、ゆったりとロクロの前に座り、緩やかな時間に身を漂わせていたい。早くモノを創る喜びに浸りたい・・・

明日は東京からさがみ三太師匠がやってくる。さぁ、明日は酒に浸るゾーー!!  違うか??
  


2009年05月25日 Posted by 臥游山人 at 22:30Comments(0)日々雑感

日銀本店見学会

昨日はたっぷりと黄金の大判小判を見てきた。勿論本物だ。場所は日本橋にある「貨幣博物館」。東京駅からふらふらと歩き、三越前で一寸迷ったけど、配車係りのおじさんに聞いたら三越のすぐ裏だった。




約束の時間2時20分前に滑り込んだが、既にはごろもフーズの後藤会長、木内建設の木内社長が待っていた。それにユニバンスの谷会長もわざわざ浜松から参加してくれた。そして本日の仕掛け人、日銀静岡支店の武藤支店長があの柔和な顔を更にほころばせて迎えてくれた。




今日は「三日月会」の、「貨幣博物館」と「日銀本店」見学の日だった。10分ほどすると全員集合。日銀の社員の方に案内され館内を見せてもらった。こちらは経済界のつわものばかり(オレ以外)なので知識は幅広い。時には案内する人がビックリするほどのうんちくが飛び出す。







個人で何百億円もする貴重な収集品を寄付した人がいて、収蔵品の約半分がそれに当たるらしい。本物の大判小判が沢山展示されていたが、一番盛り上がったのが、和同開珎のコーナーだった。昔オレ達が学校で習った時は和銅開寶(わどうかいほう)といわれていたが、今は和同開珎(わどうかいちん)というそうだ。単に字の読み違いの問題らしいが、一時学会で珎寶(ちんぽう)論争として大きく取り上げられたという。

予定の一時間があっという間に過ぎてしまった。本物のお金を見ながら歴史に思いを馳せると心も豊かになってくる。でも小判があんなに薄いものとは思わなかったな。

今度は道を渡って日銀本店の見学だ。もう向かいの信号のところに女性職員の方が待っていてくれた。上空から見ると円と読めるあの有名な建物だが、中は撮影禁止だそうだ。三人も案内が付いてきてくれた。さてはそんなに怪しまれたか?とつい思ったが、きっと武藤支店長の心配りだろう。そうだそうだ、そう思おう。







関東大震災で焼け落ち復興された建物だが、さすがに地下金庫はびくともしなかったそうだ。地下の金庫跡には当時の扉がそのまま残っている。暑さ90センチ、重さが25トンもあるそうだ。案内の方が面白い話を聞かせてくれた。床や壁面に何箇所も穴が開いていたが、それは賊に襲われた時に水を流し込むためのものらしい。地下がすべて水没するように設計されているのだそうだ。

この日銀本店を設計したのが辰野金吾という。東京駅丸の内駅舎も辰野金吾の設計だが、何と辰野金吾は、我が「三日月会」のあるメンバーの奥さんの曾お祖父さんというのだから驚いた。すごいな~~「三日月会」って・・・

日銀本店の見学が終わると、お待ちかねの食事が待っている。日銀の地下駐車場にはすでに三台のハイヤーが待っていた。これに分散して六本木にある日銀社員のクラブハウス「鳥居坂別館」に向かった。





着いたところがまるで別天地。六本木というのに緑に囲まれた広大な敷地の中にクラブハウスがあった。一階はバーと一般人用のレストランになっていた。オレ達は二階の特別室に案内された。




ゆったりと配置されたテーブル席に座るとすかさずシャンパンが開けられ各自に注がれた。隣に後藤会長が座り、オレに乾杯の挨拶をやれという。早く飲みたいので、適当なことをしゃべって「カンパ~~イ」。広い庭を眺めながら、薄暮の中で食事会が始まった。





シャンパンとワインは武藤支店長があらかじめ予約してくれたそうだ。次々と料理が運ばれ、ワインもシャブリから赤に変わる頃、静岡牛のフィレの網焼きが出てきた。コースもフィナーレに近づいてきた。デザート、コーヒーと続いたところで、後藤会長が日銀本店で買ってきた小判饅頭を取り出した。これも有難く戴いて本日の食事会が終わった。

場所を一階に移し、食後のカクテルを楽しんでからタクシーで東京駅に向かった。「ひかり」に間に合ったので、ゆったりと腰を下ろしたが、ユニバンスの谷社長と話が弾み、あっという間に静岡だ。11時前に自宅に到着することが出来たが、内容の濃い一日だったな~。



  


2009年05月23日 Posted by 臥游山人 at 17:29Comments(0)交遊録

ビッグボーイズと春日三球師匠

16日の夕刻、なべちゃんの運転する車で「ビッグボーイズ」が我家にやってきた。なべかずおと羽生愁平がコンビを組む「ビッグボーイズ」は社団法人漫才協会の第21代目真打で、今売り出し中の「ナイツ」の先輩になる。

翌17日に行う、「NPO法人ヤングカレッジ」事業の「慰問交流会」で彼らに進行をやってもらうので、そそくさとその打ち合わせをし、六時には早々と宴会モードに突入する。たいしたもてなしは出来ないが、キムチ鍋をつつきながら日本酒、ビール、ウイスキーとそれぞれ好きなものを飲み、楽しい話で盛り上がる。

そこに、たかしさん、きくちゃん夫婦が北海道直送の毛ガニを持って合流した。そうなるとなべちゃんの独壇場だ。最初はキョトンとしていたきくちゃんだが、なべちゃんの楽屋話が笑いのツボにはまり始め、次第に笑いが止まらなくなる。

9時過ぎに羽生君が清水区内の実家に帰った。彼は清水小、3中、南高出身で、生粋の清水っ子なのだ。そうなるとますますなべちゃん、サービス精神旺盛になる。だが、翌朝早起きしなくちゃいけないので、11時過ぎにきくちゃん夫婦は帰っていった。

なべちゃんまだまだ飲みたそうだが、騙すように「アモバン」半錠飲ませたらこれがよく効いた。一気に目がトロ~ンとし、布団に入るなり爆睡状態に・・・シメシメ・・・

17日はなべちゃんの車で「シンシア清水」に向かう。9時に到着。そしてそのままオレは春日三球師匠を迎えに静岡駅に向かった。10時を回った頃、改札口に三球師匠の元気な姿を発見。強く降り出した雨の中「シンシア清水」にとって返した。

いつものことだが、ビッグボーイズ、三球師匠には、本当に雀の涙のような謝金で協力してもらった。その代わり今晩はオレの小遣いはたいて、美味しい寿司を堪能してもらうつもりだ。





11時からビッグボーイズの司会で慰問交流会はスタートした。やはりプロの話芸は素晴らしい。会場が一気に笑いに包まれた。オレはお年寄りには笑いが一番必要だと思っている。例え短い時間でも心の底から笑うことで、少しでも元気に長生きして欲しい。それがオレの願いだ。

ヤングカレッジの「初めてのフラ」「やさしいマジック」「かっぽれ」各教室による楽しい出し物も登場した。発表するみんなの顔も輝いている。この法人を創設してよかったナ~とつくづく思う一瞬だった。











昼には「末廣鮨」の親方が寿司を持って自ら来てくれた。約140人分の寿司を毎回赤字で提供してくれる。オレと親方との付き合いは長いけど、ホントに器の大きな人だと常々思っている。天下の「末廣鮨」の親方が握ってくれた寿司を食べられるのだからみんな幸せそうだ。





さあ、昼からは三球師匠の出番だ。その前に「ビッグボーイズ」が15分ほど会場を暖める。三球師匠は今年75歳になるが、あの飄々とした語り口で息もつかせぬほど笑いを連発していく。オレの横で聞いていたビッグボーイズのなべかずおも思わず「上手いな~~」と唸っていた。





反応するお年寄りをちょいちょいいじりながら会場に一体感を持たせる。持ち上げて落とす。落として持ち上げる。三球師匠の芸暦だからできる名人芸だと思う。聞くところによると、師匠は最近殆ど高座に上がらないらしい。そんな師匠の芸を清水にいて見ることが出来た。つくづく幸せだな~と思った。

慰問が終わり、一旦我家に戻り、ビッグボーイズと三球師匠に一休みしてもらった。カミさんも三球師匠と久しぶりに会って楽しそうに話している。師匠とは何回も旅行に行ったりして親しくさせてもらっているので、思い出話が尽きない。

5時前に「末廣鮨」に向かう。親方がにこやかに迎えてくれる。ビッグボーイズは初めて連れて行くが、三球師匠と親方とは旧知の間柄だ。なべちゃんは運転なので日本茶、オレと羽生君は焼酎の水割り、三球師匠は熱燗で宴がスタートした、先ず、バイ貝、まき海老、子持ち昆布の三点盛りが出てきた。





次々と見計らったように酒にピッタリの美味しいものが続く。大トロの剥がし、鮑のから揚げ、5キロもあったという平目の縁側を一味で和えたぶつ切り、あおりイカの短冊に北海道の馬糞雲丹の山盛り(これを豪快にかき混ぜる)など・・・

なべちゃんも羽入君も余りの美味さに目を白黒させている。当然握りも末廣自慢の南マグロのトロ、とろけるようなアナゴ、オレの一番好きなコハダ、トロの手巻きなどが次々とでてくる。オレもかなり腹が苦しくなってきた。





隣では、たしか「私はつまみだけで結構」と言っていた筈の三球師匠が、パクパクと美味そうに食べている。そうか、これが師匠の元気の秘訣なんだ。親方が「これ飲んでみる?」といって一本の焼酎を持ってきた。「越の寒梅」で出している米焼酎だそうだ。勿論オレ達に異存のあるはずがない。ロックで飲んでみたが、まるでウイスキーのようにまろやかでコクもあり中々美味い焼酎だ。アルコール度40%なのにスーっと飲めてしまう。親方もカウンターから出てきて、三球師匠と同じ趣味、大型船クルーズの話で盛り上がっている。





しかし、名残は惜しいがこれから師匠たちは車で東京まで帰る。親方に玄関まで見送られ、三球師匠を乗せたなべちゃんの車が降りしきる雨の中、「末廣鮨」を後にしたのはまだ8時前だった。



  


2009年05月18日 Posted by 臥游山人 at 17:33Comments(1)

ほんものを食う会

5月10日は親父の32回目の命日だった。その日に合わせて「六根浄」という酒屋をやっているKさんという若い人が、山形市内のホテルで「ほんものを食う会」という催しを開催した。

「ほんものを食う会」というのは親父が日本各地からうまいものを集めて仲間と楽しんでいた会の名前だった。今から40年近く前のことである。場所は西麻布にある親父の親友(オレの仲人でもある)の邸宅だった。広さは300坪ほどあったろう。

ここに毎回100人以上集まり、餅を搗いたり蕎麦を打ったりして親交を深めていた。最後には人が集まりすぎて中止する羽目になったが、当時各方面から注目された。参加者はそれこそ有名無名が入り混じり、ホントに楽しい会だった。

その「ほんものを食う会」をKさんが再現してくれた。Kさんは親父とは全く面識がない。奥さんのお祖父さんとオレの親父が親しくしてた縁で興味を持ったという。先月親父の名前のついた純米吟醸酒「善秋」を発売し、続けざまにこの「ほんものを食う会」を開催したのだった。

親不孝者のオレはこの会に駆けつけることは出来なかった。しかし、5月10日は一日中この会のことが気がかりだった。翌日Kさんより電話がかかってきた。大盛況だったらしい。死んで30年以上経つのにこうして慕ってくれる人がいる。親父の偉業を称えてくれる人がいる。

そんな親父とオレは、心の垣根を乗り越えられないまま永久の別れをしてしまった。オレが29歳の時だった。最後の最後までオレは親父に反抗しっ放しだった。親父もオレをことごとく突き放した。



  中学時代のオレと親父

今だから分かる。あれが親父の精一杯の愛情表現だったのだ。きっと、叩きのめしても這い上がるオレを信じていたのだと思う。

今日も親父のことを想っている。久しく思い浮かべることが出来なかった親父の笑顔が浮かんでくる。ありがとうKさん。



  


2009年05月14日 Posted by 臥游山人 at 23:54Comments(1)日々雑感

右側をひたすら歩く


それにしても暑い。それでも汗をかきながら朝の散歩を続けている。この暑さのせいか、散歩中に不愉快なことが多くなった。野球禁止と書かれているのに平気で子供とキャッチボールをしている若い親達。歩行者が横断歩道を渡っているのに更にスピードを上げて通り過ぎていく車。

それでもオレは黙々と歩く。右側を歩く。意外にフラフラと歩く人間が多い。対抗者が来ると道を譲っている。でもオレは、身体の不自由な人や高齢者以外は絶対に譲らない。意地でも右側を歩く。法律でも歩行者は右側通行と決まっているはずだ。

そんなちっちゃなこと・・・と思わないでいただきたい。今の日本人に欠けているのが、正にここだと思っているからだ。

確かに日本には昔から謙譲の美徳とか惻隠の情という言葉がある。しかしそこには強い精神と深い愛情が伴わなければならない。戦後教育はここをはき違えているのではないかと思う。ただやみくもに身を引いたり、相手に合わせるんだったら、長いものに巻かれろ、臭いものに蓋、強いものだけが得をするだけの世界になってしまう。

背中に一本筋を通し、ぶれない強い心を持って生きる・・・そんな日本人が今一体どれだけいるのだろうか?

一寸おだてられりゃぁすぐ舞い上がり、一寸すごまれりゃぁすぐぶるってしまう。だから日本は世界中の便利屋に成り下がっている。一寸褒めりゃぁ金を出すし、一寸脅しても金を出す。政治も外交も、赤子の手をひねるように、アメリカから、ロシアから、中国から、そして北朝鮮にすら弄ばれている。そんな国になってしまった。

それでもオレ達団塊の世代は、日本有史上で最高に恵まれた時代を駆け抜けてきたのかも知れない。だってオレのように人徳も才能も無い人間でもヌクヌクと偉そうに生きてこれたんだから。

だからこそ思う。例え損をしても、少々怖くても、やせ我慢してまっすぐ右側を歩こう。これがそんな日本へオレなりの精一杯の恩返しだ。



  


2009年05月13日 Posted by 臥游山人 at 22:40Comments(0)日々雑感

バランタイン 30年もの

今日は月に一度の「三日月会」だった。一番先に顔を出したのが富陽軒の石井社長。何となく元気がない。仕方ないさこんな時代だもん。そしてばかに元気な声が聞こえてきたと思ったら、10数年ぶりの参加のタイカ(元鈴木総業)の鈴木剛社長だった。「バランタイン」の30年物をぶら下げてきた。

清和海運の宮崎社長、菱和設備の山名社長、日銀静岡の武藤支店長、協立電機の西社長、市立病院の杉浦先生と次々とメンバーが集まってきた。はごろもフーズの後藤会長は前の会合で引っかかっているらしく、今晩は間に合いそうにもないようだ。

ビールで乾杯し、その後バレンタインをストレートで飲んだ。こんな美味しいモノ氷で割ったら勿体ない。勿論車で来た人はお茶を飲んでいたが、剛さん、いきなり山名さんにコップを握らせバレンタインをゴクゴクと注いだ。「代行にしましょうよ」それで勝負は決まった。山名さんは代行を呼ぶことになった。

今日は焼き物作りより会話が弾んだ。なにせ話題が目白押しだ。オザワの話、知事選の話、それでも一番ボルテージの上がったのが国際的な経済問題だった。今日は武藤支店長もいる。

次々と核心を突いた容赦ない質問が飛ぶ。質問する方も海外に支社を持ってる人ばかりなので、内容が非常に濃い。それを武藤さんはいやな顔一つしないで丁寧に答えてくれる。

まるで生きた経済教室だ。マスコミが流す記事や、世間に流布されている事柄が如何に胡散臭くて捏造に満ちているか、底打ちしてるといわれてるアメリカ・日本経済が、まだまだ不安定要素が拭いきれず、更なるステージにメルトダウンする危険性を孕んでいるということとも教えてもらった。

中でも剛さんの言った言葉が忘れられない。「これからは草食ってでも生きる人しか生き延びられないよ」日本はもう8年間赤字地獄が続くという。その間に主だった企業は次々と海外に生産拠点を移す。日本は完全に空洞化するだろうという。そうなった時、仕事も住む家もなくなった日本人は一体どこに向かうのか?

あまり焼き物を作らないままに帰りの時間となった。余りに剛さんの話が面白かったので、「今度遊びに行っていい?」と聞いたら「あぁいいよ」と言ってくれたので、近いうちに遊びに行こう。剛さん帰り際にこう言った。「来るんだったらかなり前に連絡頂戴、突然だとカミサン怖いから・・・」

な~んだ、どこもみんなそうなんだ・・・
  


2009年05月12日 Posted by 臥游山人 at 01:09Comments(0)メタボの素

血を吹き出させろ

静岡県知事がやっと辞めてくれそうだ。そこで各党、候補者選びに躍起になっているんだろうと思っていたのだが蓋を開けてみてビックリした。なんと水面下で自民、民主相乗りで候補者擁立を画策してたらしい。

それも60過ぎの何の新鮮味もない人物だった。自民党側から異論が出てこの人選は流れたらしいが、政権交代して古い政治にサヨナラしよう、そう言ってたのは民主党だったんじゃないのかい?民主党は自前の候補者も立てられないほど人材がいないのか?何とも歯切れの悪いみっともない結末に唖然としたのはオレだけじゃないだろう。

わずか数ヶ月前に自民党があれほどオロオロしていたのに、民主党がこんな体たらくだから足元を見られてしまった。アッソーソーリも昨日の国会中継で、更に口をひん曲げ、あのイライラするようなだみ声で小僧っ子をからかうように官僚擁護論を繰り述べていた。あれがアッソーの本質だよ。これじゃ~昔の政治と何にも変わってないじゃないか。

ようやく民主党の若手が反オザワの行動を開始したらしいが、彼らには未だ国民が何を望んでいるのか理解できてないようだ。民主党の支持率が下がってしまった真の理由が分からないようだ。国民はオザワが金権体質だというのはとっくに知ってるよ。もうオザワの問題ではなくなっているんだよ。

民主党が、旧来の利権政治と世襲政治の打破、そして官僚機構改革をやってくれるのなら、少々の経済的リスクを覚悟してまで一回民主党に政権を任せてみようと国民は思ったのだ。日本を一回リセットしてみたい。それを民主党に期待したのだ。それなのに若手が改革を怖がり、地バン(オザワ)看バン(カン)かバン(ハトヤマ)を温存しようと自民党並みの政争を繰り広げたことに国民は嫌気がさしたのだ。

手を伸ばせば触れるほどのところに政権が近づいたのに、無力と非力をさらけ出し、自ら政権を遠ざけてしまった。国民はこんな民主党に失望と諦めを感じ始めている・・・

民主党よ!もっと自らの肉を切りきざめ!もっともっと血を吹き出させろ!そしてその傷が骨まで達していなければ、命までは絶たれない・・・
  


2009年05月09日 Posted by 臥游山人 at 14:07Comments(0)日々雑感

招待状

中川博之先生から「作曲生活45周年記念コンサート」の招待状が届いた。日時は11月16日。会場は先生の生まれ故郷、「岡山シンフォニーホール」という所。美川憲一、ロス・プリモス、真咲よう子、里見浩太郎など、錚々たるメンバーが出演予定だ。

中川博之といえば日本のムード歌謡の第一人者として広く知られている。主な作品を並べると「ラブユー東京」「たそがれの銀座」「意気地なし」「わたし祈ってます」「夜の銀狐」「さそり座の女」「新潟ブルース」「サヨナラ横浜」など数え上げたらきりが無い。



 作詞家の荒木とよひさ氏、オレ、中川先生



高畠じゅん子先生、すずきじゅんいち、オレ、中川先生

先生は、「中川博之」の他、「五十嵐悟」や「ユズリハシロー」などいくつかのペンネームも持っていて、もう千曲以上の楽曲を有名歌手に提供している。奥さんは高畠じゅん子といってこちらも高名な作詞家である。公私共に良きパートナーとして、数々のヒット曲を世に送り出している。



  カラオケを歌うじゅん子先生

オレの友人で中川先生の曲の大ファンがいる。カラオケに行くと先生の歌ばっかり歌っている。その友人の長男が結婚するときにオレが仲人を務めることになった。オレは友人をビックリさせてやろうと思い、「式の途中でサプライズ登場し、お祝いの歌を歌ってもらえませんか」と、友人に内緒で先生にお願いした。

すぐに先生から返信が届いた。今度はオレがビックリする番だった。なんと奥さんの高畠じゅん子先生も一緒に来てくれるという。こりゃぁ大事になった。諸々の費用はオレのポケットマネーで負担する予定だった。二人となると費用は倍になるが、「お願いします」とオレは即答した。

先生はギターを持参して、弾き語りで自作の曲を歌ってくれた。元々先生は歌手志望だったので歌唱力は素晴らしいし、何より歌うことが大好きなのだ。じゅん子先生も素敵なスピーチをしてくれた。これには友人も涙を流さんばかりに喜んでくれた。



先生のパーティでのスナップ



日本平ホテルのロビーで

先生は五年ごとに記念のコンサートを開いている。オレは出来る限り出席しているのだが、今回はどうしても行けそうにない。オレの個展とぶつかってしまうのだ。

オレは今、泣く泣くお断りの手紙を書いている。「先生今回は行けませんが、50周年には必ず馳せ参じます」

歳はオレより一回り上なので、50周年の時先生は喜寿になってるはずだ。



  


2009年05月05日 Posted by 臥游山人 at 12:37Comments(0)交遊録

黄泉からの招待状

五日ほど前に山形の叔母より兵庫に住む叔父さんが交通事故に遭い亡くなったという電話があった。去年はこの叔母の連れ合いが亡くなったばかりだ。

今日の訃報欄には、司法書士のTっちゃんの名前が載っていた。Tっちゃんとは、20数年前に、オレが所属していたある奉仕団体で出会った。その団体は何かあると動物の吠えるような声を出すことで知られているが、オレはこれが大嫌いだった。

これをやらされそうだナと思うと、オレはいつもすっとトイレに逃げ出したもんだが、ここでいつもTっちゃんと出くわしてしまう。どうもTっちゃんも苦手なようだ。お互い目と目を合わせニヤっとするだけだったが、オレとは妙に気の合う人だった。

テレビをつけるとどこでも忌野清志郎の訃報ばかり流してる。それだけ影響力のあった歌手だったんだな、と今更ながらに思う。

オレは直接清志郎に会ったことはない。しかし浅からぬ因縁がある。清志郎の所属事務所の社長をやっていたJちゃんがオレの知人だった。20年程前になるだろうか?オレは清志郎を巻き込んだあることをやりたいと思ってJちゃんにわざわざ清水まできてもらったことがある。残念ながらこれは実現しなかったが、清志郎もこのことは知っていたはずだ。

又、オレの古い友人Tさんが清志郎と大の仲良しだった。清志郎もよく彼の家に遊びに行ってたようで、いろいろな話を聞かせてくれた。漫画が得意だったらしく時々漫画を書いたFAXも届いたらしい。

ある時オレはTさんに「NPO法人の行事の時に一回清志郎に清水に来てもらいたいな」と言ったら「あ~言っとくよ。何とか実現させようか」と言ってくれた。ギター一本持ってフラリと清水にきてもらいたいなとオレは思っていた。

病気が治ったら・・・それが実現できると思っていた。清志郎といつか話をする機会があるだろうと思っていた・・・それがもう不可能になった・・・今頃きっとJちゃんもTさんも辛い思いをしてるだろうな・・・

オレの心の中にある人名札がハラリハラリと剥がされていく。そんな年回りになってきたんだね。

そんなオレにだっていずれ黄泉の国から招待状が届くんだろうな・・・
  


2009年05月04日 Posted by 臥游山人 at 13:28Comments(0)交遊録

中国秘話  Ⅴ  1984.10.1

中南海は、故宮(紫禁城)の西側に位置し、赤くて高い塀に取り囲まれた特別な一角である。ここには中国共産党本部や、中華人民共和国国務院があり、謂わば日本に於ける永田町、アメリカではホワイトハウスというところだろうか。かつて毛沢東、周恩来、鄧小平など歴代の政府要人が居住していて、中国政府の中枢ともいえる場所である。

中南海とはモンゴル語で「中南部に位置する庭園」という意味らしいが、1999年に気功集団「法輪功」のメンバー1万人が取り囲み問題になった場所、といったら分かってもらえるだろうか?

一般市民や旅行者は絶対立ち寄れない場所なのだが、中国政府は我々に開放してくれた。門をくぐるとそこには別世界が広がっていた。広大な池に舟遊びをしている人がいる。ここで中国の戦後政治が始まり、今でも熾烈な暗闘が繰り広げられているとは思えない実にのどかな光景だ。




ふとオレの後ろがざわついたので振り返ったら、胡櫂邦さんが歩いてきた。周りにSPもいたが、こんな間近で遭えるとは思わなかった。話しかける間もなく早足で歩いていったが、思わず声を掛けたくなるほどにこやかな笑いを振りまいていた。




その後、毛沢東が住んでいた家などを見学し、夕食を摂るためにホテルに戻ったが今日の予定はまだまだ終わらない。食事を急いで済ませ、又バスに乗り天安門広場に戻った。そこで大花火大会が予定されていた。







8時から一斉に花火が打ち上げられ、天安門広場の夜空が真っ赤に染まった。火の粉がパラパラと降ってきてあちらこちらから嬌声が上がる。オレ達の前に代わる代わりに中国の若者達がやってきて踊りを披露する。一緒に踊りだす者もいて、そこらじゅうで日中交流が始まった。広場には50万人がいるそうだ。










オレはトイレがどうなっているのか気になったので、そーっと抜け出して広場の端の方まで行ってみた。側溝のところにテントが張ってあり、そこが簡易トイレになっていた。側溝の蓋を飛び飛びに外しただけで隣との境もないものだった。これだけの人間が集まっているのだから大変だろうと思っていたが、実におおらかなトイレ事情だった。

花火大会は11時近くまで続いたが、最後に山形の「花笠踊り」が飛び出した。最初は単純に喜んでいたが、ふとあることに気付き鳥肌が立つような思いがした。日中交流のさきがけとなったオレの親父が山形出身で、今回の総団長も山形出身なのだ。もし中国側がそれを知った上での演出だとしたら、なんときめ細かい気遣いなんだろう。







花火大会が終わっても天安門広場には興奮と嬌声が渦巻いていた。オレたちは通訳に案内されて、大きな黒塗りの乗用車に乗せられた。政府要人が乗る「紅旗」のリムジンだった。帰りはこのリムジンでホテルまで送ってもらった。パトカー先導なので、すべての交差点をノンストップで疾走する。

もうこんな経験は出来ないだろうなと思いながらも、オレは眠気と必死に戦っていた。




  


2009年05月01日 Posted by 臥游山人 at 21:30Comments(0)日々雑感