春日三球師匠
前の日記で三球師匠のことに触れたので、少し師匠の事を書いてみたいと思う。
今では三球という名前が正式名になっているが、本当は三休というのが正式名だった。1959年、栗友一休・三休でデビューしたが、ある時、後楽園で仕事をした時に、ポスターを見たら一球・三球と勝手に名前を変えられていたという。普通なら抗議するところだが、「それでもいいや」とそれ以降「三球」で通してきたというから、何とも師匠らしい話だ。
ところが、相方の一休さんが三河島事故で突然の死を遂げてしまった。その年に照代さんと結婚。1965年に奥さんと「春日三球・照代」で夫婦コンビを組んだ。
この時に「地下鉄はどこから入ったんでしょうね。それを考えると夜も眠れなくなっちゃう」のフレーズで一気に有名になり、日本中で名前を知らぬ人がいないほどの人気を得た。やがて1987年に演芸大賞を受賞し、漫才界のトップに登りつめた。
多忙な毎日が体を蝕んでしまったのか、1987年に照代さんが舞台の袖で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
その後も師匠は一人で仕事を続けているが、以前のようにテレビ出演を控え、山登りや街道歩き、世界の船旅、、、などの趣味を楽しんでいる。まさに悠々自適の毎日だ。
オレが師匠と知り合ったのは、20年以上前になる。やはり漫才の青空うれし師匠とハワイに遊びに行った時にうれし師匠から紹介された。その後アメリカ本土にも一緒に旅行したり、清水にも来てもらったりしながら交際を深めさせてもらっている。



師匠との思いで出で一番印象深かった事がある。当時オレは船橋のららぽーとにあるデパート(今はない)の美術画廊で毎年のように個展をやっていた。何回目かの個展の初日、三球師匠が突然会場に現れた。「隣のホテルで知り合いの結婚式があったからついでに覗いてみようと思ってさ」とニコニコしながら、「はい」とオレに何やら手渡した。
見たら、当時ではかなりの金額のお札だった。「どうしたんですか、これ」と尋ねるオレに、「花婿の親父にさ、知り合いの陶芸家が隣で個展をやっているから何か買ってやってよ、と言ってこれだけ貰って来たよ。これで適当にみつくろってくれる?」
後日オレは、この金額以上の作品を送らせてもらったが、話はこれで終わらない。その日、船橋の友人がデパートのバンケットルームでオレの歓迎会を開いてくれた。お礼の意味もあってオレは師匠に、「師匠も良かったら出て下さい」と言ったら、あっさりOKしてくれた。
歓迎会の会場に入るなり師匠は「司会はどうなっているの?」と聞いてきた。「誰か友人がやってくれると思いますよ」と答えるオレに、「俺がやってやるよ」と思いがけない言葉が、、、「師匠、予算が、、、」というオレに、「友達じゃないか、お金なんかいらないよ」と、早速マイクを握った。
さあ、会場は大騒ぎだ。あの春日三球が突然現れて、それも司会をやってくれる。流石プロだ、打ち合わせも一切なしに会場を盛り上げていただいた。
春日三球師匠とはこんな人なのだ。日本の漫才界に金字塔を打ち立て、今や生きながらしてレジェンドとなっている師匠が、こんな貧乏陶芸家のタメグチにも一切嫌な顔をせず、変わらぬ交情を続けて下さる。


いつもオレに、「アンタの死に水は俺が取ってやるよ」って、いやいや逆でしょう師匠。まだまだ若い79歳。益々元気だ。若しかしたら師匠の言う通りに、、、いやいや、、、
今では三球という名前が正式名になっているが、本当は三休というのが正式名だった。1959年、栗友一休・三休でデビューしたが、ある時、後楽園で仕事をした時に、ポスターを見たら一球・三球と勝手に名前を変えられていたという。普通なら抗議するところだが、「それでもいいや」とそれ以降「三球」で通してきたというから、何とも師匠らしい話だ。
ところが、相方の一休さんが三河島事故で突然の死を遂げてしまった。その年に照代さんと結婚。1965年に奥さんと「春日三球・照代」で夫婦コンビを組んだ。
この時に「地下鉄はどこから入ったんでしょうね。それを考えると夜も眠れなくなっちゃう」のフレーズで一気に有名になり、日本中で名前を知らぬ人がいないほどの人気を得た。やがて1987年に演芸大賞を受賞し、漫才界のトップに登りつめた。
多忙な毎日が体を蝕んでしまったのか、1987年に照代さんが舞台の袖で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
その後も師匠は一人で仕事を続けているが、以前のようにテレビ出演を控え、山登りや街道歩き、世界の船旅、、、などの趣味を楽しんでいる。まさに悠々自適の毎日だ。
オレが師匠と知り合ったのは、20年以上前になる。やはり漫才の青空うれし師匠とハワイに遊びに行った時にうれし師匠から紹介された。その後アメリカ本土にも一緒に旅行したり、清水にも来てもらったりしながら交際を深めさせてもらっている。



師匠との思いで出で一番印象深かった事がある。当時オレは船橋のららぽーとにあるデパート(今はない)の美術画廊で毎年のように個展をやっていた。何回目かの個展の初日、三球師匠が突然会場に現れた。「隣のホテルで知り合いの結婚式があったからついでに覗いてみようと思ってさ」とニコニコしながら、「はい」とオレに何やら手渡した。
見たら、当時ではかなりの金額のお札だった。「どうしたんですか、これ」と尋ねるオレに、「花婿の親父にさ、知り合いの陶芸家が隣で個展をやっているから何か買ってやってよ、と言ってこれだけ貰って来たよ。これで適当にみつくろってくれる?」
後日オレは、この金額以上の作品を送らせてもらったが、話はこれで終わらない。その日、船橋の友人がデパートのバンケットルームでオレの歓迎会を開いてくれた。お礼の意味もあってオレは師匠に、「師匠も良かったら出て下さい」と言ったら、あっさりOKしてくれた。
歓迎会の会場に入るなり師匠は「司会はどうなっているの?」と聞いてきた。「誰か友人がやってくれると思いますよ」と答えるオレに、「俺がやってやるよ」と思いがけない言葉が、、、「師匠、予算が、、、」というオレに、「友達じゃないか、お金なんかいらないよ」と、早速マイクを握った。
さあ、会場は大騒ぎだ。あの春日三球が突然現れて、それも司会をやってくれる。流石プロだ、打ち合わせも一切なしに会場を盛り上げていただいた。
春日三球師匠とはこんな人なのだ。日本の漫才界に金字塔を打ち立て、今や生きながらしてレジェンドとなっている師匠が、こんな貧乏陶芸家のタメグチにも一切嫌な顔をせず、変わらぬ交情を続けて下さる。

いつもオレに、「アンタの死に水は俺が取ってやるよ」って、いやいや逆でしょう師匠。まだまだ若い79歳。益々元気だ。若しかしたら師匠の言う通りに、、、いやいや、、、