田中智学と三保、そして宮沢賢治

羽衣伝説で有名な三保の内海貝島地区に、最勝閣という、まるで竜宮城のような建物があった。木造五階建てで外観は三階建て、何とも不思議な建物であった。明治43年に大阪の四ツ橋にあった立正閣を移築したもので、海を隔てた清水の市街からもその優雅な姿が望めたという。

田中智学と三保、そして宮沢賢治



最勝閣は国柱会の本部であった。国柱会の主宰者は田中智学という宗教家である。田中智学は宗教から国家観を構築して、法華経を国教とし、いずれ政治的にも思想的にも世界を統一し、世界に平和と繁栄をもたらすという、とてつもない野望を抱えていた。

田中智学と三保、そして宮沢賢治



その為に、日蓮の教えにもとづき、日本最勝の地、霊峰富士山に国立戒壇を建立する。その富士山を遠望するに最適の地が三保である、ということで最勝閣を三保に築いたのだった。智学は、国教が成立して日本が統一された場合、清水を首都とし、三保に拝殿を建設し、清水港を母港とする義勇艦隊を置き、本山鉄道を敷くということを夢見ていたという。若しこれが実現していたら、、、と思うと、、、ぞくぞくするような話だね。

田中智学と三保、そして宮沢賢治



今思うとまさに夢物語に過ぎないが、当時は智学に心酔し、彼を信奉した人が沢山いた。高山樗牛、与謝野鉄幹・晶子夫妻、幸田露伴、高浜虚子、萩原井泉水、北原白秋、武見太郎、五代目尾上菊五郎、中村福助、近衛文麿、大川周明、井上日召、北一輝、牧口常三郎、など日本を代表するような文化人や思想家達、そして東条英機や石原莞爾などの軍人にも影響を与えた。田中智学によって造語された「八絋一宇」という思想が、東条英機により大東亜共栄圏の支配というイデオロギーにすり替えられ、石原莞爾が満州に国家を建国し、「王道楽土」、「五族協和」を唱え、やがて日華事変、大東亜戦争へと発展していくことになった。

なかでも特筆すべきは宮沢賢治の存在であろう。数々の作品から、宮沢賢治にはコスモポリタン的な、あるいはキリスト教的なイメージを抱く人もいるようだが、彼は生涯を通して日蓮主義に基く国柱会信者である。というより田中智学信者といってもいいかもしれない。賢治は、「日蓮上人に従い奉る様に、田中先生に絶対に服従いたします」と宣言している。又、賢治自身の戒名も「真金院三不日賢善男子」といい、国柱会より戴いている。

田中智学と三保、そして宮沢賢治



賢治の父親は、浄土真宗の熱心な門徒であったが、賢治は事あるごとに父親に改宗を迫り、二人は宗派を巡って争いが耐えなかったそうである。しかし何故か父親は、晩年になって日蓮宗に改宗しているという。あの有名な「雨ニモマケズ」は若しかしたら折伏の詩なのかもしれないナ~~。

賢治が26歳の時、最愛の妹トシが亡くなっている。しかし賢治は宗派が違うということでトシの葬儀に参列せず、後日、分骨したトシの遺骨を持って三保の最勝閣を訪れ納骨したのである。当時、巴川河口辺りから三保の塚間まで内海を横断する長い木橋があったという。果たして賢治はトシの遺骨を抱いてこの橋を渡ったのであろうか。ここで数日間過ごし賢治は東京に戻っていった。その時賢治は田中智学と何を語ったのであろうか?

田中智学と三保、そして宮沢賢治



その後、行政や企業による三保地区の開発が進み、それを嫌った智学は昭和4年に国柱会本部を東京に移転した。やがて最勝閣も取り壊された。その時智学はこんな言葉を残している。「天下の宝を破壊しないでも道はいくらもある。そこが人間の智慧の用かせ所だ。至誠もなく、経営もなく、智慧もない奴がやった政治経済は、天下の自然の大宝物を破壊する様になる。これを愚劣という」

時を同じくして、清水では異端の宗教家が蠢いていた。審神者(さにわ)の長澤雄楯(かつたつ)である。元「美穂神社」の宮司で、現在の清水区岡町にある「月見里(やまなし)笠森稲荷」の宮司であった長澤雄楯は、神社を尋ねてきた出口王仁三郎に鎮魂帰神法を施し、神懸り状態にさせたという。二人は手を洗い、口をすすいで社前で対座し、鎮魂石の前で長澤が岩笛を吹きだした。みるみる王仁三郎の体がぴ~んと反り返り神懸り状態になった。この時王仁三郎は日露戦争の開戦日や勝敗まで言い当てたという。

長澤雄楯の影響を受けた宗教家は数知れないが、中でも三五(あなない)教を興した中野與之助が有名である。三五教本部は笠森稲荷の直ぐ横にあったが、今は大東町に移設した。余り知られていないが、NGO団体の「オイスカ」はこの三五教が創設したものである。

その他にもPL教の本部も清水にあった。PL教はその頃まだ「ひとのみち」と呼ばれていたが、清水駅の近くに本部があり、多い時で10万人を越える信者がいたという。やがて清水の馬走という所に本部を移設しようとして地元住民の反対で頓挫したという。それを聞きつけた大阪富田林の塩川正三という人が誘致に動き、現在に至った。塩川正三は、あの塩爺こと塩川正十郎の父親である。

調べれば調べるほど、清水は奥が深い。しかし富士山は微動だにせず、そんな塵芥の移り変わりを悠然と見届け続けている、、、


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2011年05月05日 Posted by臥游山人 at 15:21 │Comments(2)日々雑感

この記事へのコメント
うーんおもしろい。

だいたいの筋は私も知っていましたが、
最勝閣内部の写真、田中智学の肖像写真。
羽衣橋もお祭りの行列?が渡っているもので初めて見ました。

神の依り代としては最高の富士山、
海に浮かぶような三保は、蓬莱島。

平安の昔より、聖地だったんですね清水。
Posted by クールなお at 2011年05月05日 16:11
羽衣橋を渡っているのは田中智学です。この写真は大正3年11月に行われた正鏡宝殿落慶御本尊遷座大式典の大行列の模様です。

数千人の隊列が興津駅から汽車に乗り、江尻駅で下車。そこから巴川の橋を全部渡り、最後に羽衣橋を渡って三保に向かったようです。

清水はとてつもない歴史秘話を孕んでいる不思議な空間です。
Posted by 快傑ガンコ親父快傑ガンコ親父 at 2011年05月05日 23:04
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